第三十二話 瞑想曲
ブロッケスは、薄暗い廊下の奥へ静かに歩き去っていく。
ユリアは、その背中を見つめたまま立ち尽くしていた。
胸の奥には、先ほどの言葉が重く残っている。
――この国を終わらせる覚悟があるのですか……。
しばらく動くことができなかった。
だが。
――ここで立ち止まっていても仕方ないわね。
小さく息を吐く。
踵を返し、自室へ向かおうとした、その時だった。
柱の陰に、一人の男が立っていることへ気付く。
アルベリヒだった。
腕を組んだまま。
何かを考え込むように、一点を見つめている。
ユリアは立ち止まった。
しばらくその様子を見つめる。
どうやら。
こちらにはまだ気付いていないらしい。
思わず小さくため息をつく。
「ねえ」
「あなた、何してるの?」
突然の声に。
アルベリヒは肩を大きく震わせた。
思わず声を上げかける。
だが、慌てて自ら口を押さえた。
ユリアは呆れたように目を細める。
「ブロッケスと話していたの」
「見ていたのね……」
アルベリヒは一瞬だけ視線を逸らす。
少し気まずそうに口を開いた。
「……すまない」
「少し気になってな」
ユリアは薄く笑う。
「まあ、いいわ」
「でも」
「二人で話しているところを見られたら面倒でしょう」
「私はもう行くわ」
そう言って歩き出そうとする。
「待ってくれ」
アルベリヒが思わず呼び止めた。
ユリアは足を止める。
振り返ることなく問い返した。
「何?」
アルベリヒは少し言い淀む。
そして、小さく尋ねた。
「……名前を」
「聞かせてもらってもいいか」
ほんの少しだけ沈黙が流れる。
ユリアはゆっくりと振り返った。
そして。
「ユリア……」
それだけを告げる。
すぐに踵を返し、そのまま廊下の奥へ歩き去っていった。
アルベリヒは、その背中を静かに見送る。
「……ユリア」
小さく、その名を繰り返す。
どこか胸に引っ掛かる響きだった。
だが。
その正体までは、まだ思い至ることはできなかった。
二月九日。
朝。
ユリアは卓上暦を一枚めくった。
昨夜は、ほとんど眠ることができなかった。
頭の中では、何度も同じ言葉が繰り返される。
――この国を終わらせる覚悟が。
――あなたには、あるのですか?
ブロッケスの声が、耳から離れない。
ユリアは大きく息を吐いた。
そして。
感情を押さえきれず、机を軽く叩く。
「両親を殺されて」
「日陰者にされて」
「最後は処刑される私が……」
「どうして、こんなことで悩まないといけないのよ!」
部屋に声が響く。
だが。
返ってくるのは静寂だけだった。
ユリアは力なく椅子へ腰を下ろす。
しばらく俯いていた。
やがて、小さく呟く。
――だけど……。
――ブロッケスの言っていることも、間違ってはいない。
もし。
王妃が前国王夫妻を殺したと公になれば。
王宮だけでは済まない。
この国そのものが、大きく揺らぐ。
ユリアは静かに目を閉じた。
その頃。
アルベリヒは執務室で書類へ目を通していた。
だが。
文字は頭へ入ってこない。
昨夜の出来事ばかりが脳裏を巡っていた。
ブロッケスへ臆することなく向かっていった、ユリアの姿。
そして。
ブロッケスから投げ掛けられた、あの言葉。
――この国を終わらせる覚悟が、あなたにはあるのですか?
彼女が、あの言葉をどう受け止めたのかは分からない。
だが。
少なくとも、自分にはそんな覚悟すらなかった。
十五年前。
王妃が前国王夫妻を殺害した、あの夜。
自分は恐怖で腰を抜かした。
そして。
ティルに言われるがまま、証拠隠滅へ加担した。
その関係は、十五年経った今も続いている。
外務卿という地位さえ、その代償だった。
アルベリヒは手を止める。
机へ視線を落とした。
――俺は……。
――いったい何をやっているんだ……。
しばらく動かなかった。
やがて。
静かに席を立つ。
執務室を出ると、人気の少ない回廊を抜け、審問院へ向かった。
審問院の建物が見える場所まで来ると、周囲を見渡す。
人通りはまだ少ない。
――もうすぐ来るはずだ……。
しばらく待っていると。
顔見知りの審問官が、審問院へ姿を現した。
アルベリヒは軽く手を挙げる。
審問官も気付き、小さく頭を下げながら近付いてきた。
「朝早くから、どうされたのですか?」
アルベリヒは周囲を確認する。
誰も聞いていないことを確かめると、小声で切り出した。
「審問院の資料庫だ」
「今夜だけ、裏口を開けておいてくれ」
「確認したい書類がある」
審問官は一瞬だけ表情を曇らせた。
周囲へ視線を巡らせる。
短い沈黙。
やがて、小さく息を吐いた。
「……今回だけですよ」
アルベリヒは静かに頷く。
「すまない」
「この借りは、必ず返す」
審問官も小さく頷き返した。
それ以上、言葉は交わさない。
アルベリヒは踵を返す。
ゆっくりと、自分の執務室へ向かって歩き出した。
アルベリヒは執務室へ向かって歩いていた。
その時だった。
前方から、一人の男が歩いてくる。
ティルだった。
アルベリヒの心臓が跳ねる。
一瞬だけ視線を逸らしかける。
だが、すぐに表情を整えた。
何事もないように歩み寄る。
軽く会釈をして、そのまま通り過ぎようとした。
「アルベリヒ」
静かな声だった。
アルベリヒの足が止まる。
胸の鼓動が速くなる。
――何か気付かれたのか……?
ゆっくりと振り返る。
「……何でしょうか」
ティルはアルベリヒを静かに見つめた。
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
「最近」
「顔色が良くないようだが」
「何かあったのか?」
心配しているようにも聞こえる。
だが。
その瞳は、アルベリヒの反応を見極めようとしているようにも見えた。
アルベリヒは胸の内を悟られぬよう、小さく笑みを作る。
「いえ」
「大丈夫です」
「少し寝不足なだけですよ」
ティルは、しばらくアルベリヒの顔を見つめていた。
やがて。
「そうか」
短くそれだけ言う。
そして、何事もなかったかのように歩き去っていった。
アルベリヒは、その背中が見えなくなるまで動くことができなかった。
やがて小さく息を吐く。
――気付かれて……いないよな。
自分に言い聞かせるように呟く。
それでも胸の鼓動は、しばらく収まることはなかった。
アルベリヒは気持ちを落ち着かせるように一度深呼吸すると、静かに執務室への道を歩き始めた。
その夜。
王宮が静まり返る頃。
アルベリヒは、静かに自室を出た。
一度、王宮の外へ出る。
冷たい夜風が頬を撫でた。
そのまま人目を避けるように歩き、審問院資料庫の裏口へ向かう。
――確か、この辺りのはずだ……。
暗闇の中を見回す。
やがて。
小さな扉が目に入った。
――あった。
アルベリヒはゆっくりと扉の取っ手へ手を掛ける。
静かに回す。
鍵は掛かっていなかった。
――約束を守ってくれたんだな……。
心の中で小さく礼を言う。
扉を開け、音を立てないよう資料庫へ足を踏み入れた。
薄暗い室内。
アルベリヒは燭台へ火を灯す。
橙色の灯りが、本棚をぼんやりと照らし出した。
棚には、年代ごとに整理された大量の資料が並んでいる。
アルベリヒは奥へ進んだ。
――年代的には……。
――この辺りか。
一冊抜き取る。
頁をめくる。
違う。
元の場所へ戻す。
さらに隣の棚へ移る。
別の資料を手に取る。
年代を確認する。
――まだ新しいな……。
何冊も資料を取り出しては戻す。
やがて。
アルベリヒの手が止まった。
――これだ。
表紙には、
『ライヘンバッハ国王夫妻死亡事件』
そう記されていた。
アルベリヒは静かに頁をめくる。
捜査当局からの報告。
審問院での審議。
そして。
事故として処理するまでの経緯が、時系列に沿って記録されていた。
最後の頁には。
審問院長ブロッケスの署名。
アルベリヒは、その文字を静かに見つめる。
再び頁をめくる。
書類へ目を通していた、その時だった。
ある一文で、指が止まる。
『現場に居合わせた』
『ユリア・フォン・ライヘンバッハ王女は』
『精神的衝撃が大きく』
『証言を得ることはできなかった』
『証言可能な者はいないと判断する』
アルベリヒは息を止めた。
「ユリア……」
昨日。
あの少女が名乗った名前。
確かに同じだった。
「いや……」
「そんな馬鹿な……」
ゆっくりと首を振る。
「前国王の娘なら……」
「どうして……」
「思い出せないんだ……?」
答えは出ない。
だが。
今は考えている時間はなかった。
アルベリヒは資料を閉じる。
静かに抱え上げた。
燭台の火を吹き消す。
再び闇に包まれた資料庫をあとにすると、音を立てないよう扉を閉める。
そして。
夜の闇へ紛れるように、その場を立ち去っていった。




