第三十一話 受難曲
アルベリヒの部屋を後にしたユリアは、自室へ戻っていた。
静かに椅子へ腰を下ろす。
目を閉じる。
頭の中で、先ほどの会話を整理していく。
――アルベリヒの話からすると。
――ブロッケスを揺さぶる材料を探さないといけないわね……。
しかし。
簡単に見つかるものではなさそうだった。
ユリアは小さく息を吐く。
――二月八日。
――王宮礼拝の日。
その時に、一度ブロッケスへ接触してみましょうか。
アルベリヒのように、何か反応を見せてくれればいいけれど……。
すぐに小さく首を振る。
――そんなに上手くはいかないわね。
ブロッケスは、アルベリヒとは違う。
長年、審問院長を務めてきた男だ。
少し言葉を掛けた程度で動揺するとは思えない。
それでも。
――会ってみないことには始まらないわ。
――駄目なら、その時また考えましょう。
ユリアは静かに立ち上がる。
窓の外へ視線を向けた。
二月八日。
夕暮れ。
窓の外は、すっかり薄暗くなっていた。
ユリアは静かに立ち上がる。
――そろそろ行きましょうか……。
部屋を出る。
向かう先は、王宮礼拝が行われる礼拝堂だった。
王宮の中央棟。
高い天井へ幾筋もの蝋燭の灯が揺れている。
祭壇の奥には、大きな聖印が掲げられ、その前には白い祭服を纏った司祭たちが礼拝の準備を進めていた。
礼拝が始まるまで、まだ少し時間がある。
王宮関係者たちは、思い思いの場所で静かに開始を待っていた。
ユリアは最後列へ立つ。
そして、誰にも気付かれないよう会場全体へ視線を巡らせた。
――国王と王妃は、まだ来ていないわね。
前方へ目を向ける。
そこには、すでに審問院長ブロッケスの姿があった。
その隣では、審問官クラウスが静かに言葉を交わしている。
さらに。
ティルも加わり、何やら話をしていた。
穏やかな空気ではない。
互いに言葉を選びながら、事務的な確認をしているようにも見えた。
その少し前方。
エルザの姿もある。
エルザは何気なく振り返る。
そして。
最後列に立つユリアを見つけた。
一瞬だけ目を丸くする。
すぐに小さく会釈をした。
ユリアも柔らかく微笑み返す。
しばらくすると。
礼拝堂の扉が再び開いた。
アルベリヒだった。
どこか落ち着かない様子で、会場全体へ視線を走らせる。
そして。
最後列のユリアを見つけた瞬間。
その表情が僅かに強張った。
――気付いたわね。
アルベリヒは動揺を隠すように歩き出す。
途中。
ティルやブロッケス。
顔見知りの貴族たちへ軽く挨拶を交わしながら、自然な足取りで後方へ移動してくる。
やがて。
ユリアの前で足を止めた。
振り返ることはない。
前を向いたまま、小さな声だけが届く。
「どうしてここに来ているんだ」
ユリアは何事もないように答えた。
「ブロッケスと話がしたくてよ」
アルベリヒは小さく息を吐く。
「これ以上深入りはするな」
「本当に……」
「殺されるんだぞ」
ユリアは静かに笑った。
「前にも言ったでしょう」
「そんなことは分かっているって」
アルベリヒは何か言い返そうとする。
だが。
結局、何も言えなかった。
その時だった。
礼拝堂の入口が大きく開く。
国王ローエン。
そして王妃フレイアが姿を現した。
会場全体が静まり返る。
王宮関係者たちは、一斉に頭を下げた。
ユリアだけは。
静かに王妃を見つめ続ける。
一瞬。
二人の視線が交わった。
その瞬間だけ。
王妃の表情が僅かに揺らいだように見えた。
だが、それもほんの一瞬。
フレイアは何事もなかったかのように視線を逸らす。
穏やかな笑みを浮かべたまま、最前列中央の席へ腰を下ろした。
やがて司祭が祭壇へ進み出る。
礼拝堂へ鐘の音が響いた。
全員が静かに起立する。
祈りの言葉が唱えられ。
礼拝堂が、束の間の静寂に包まれていく。
ユリアは祈ることもなく。
ただ前だけを見つめていた。
礼拝は滞りなく終わった。
司祭が最後の祈りを捧げる。
国王と王妃が立ち上がると、それに続いて人々も静かに礼拝堂を後にしていく。
ユリアは人の流れへ紛れ込む。
その視線は、一人の男だけを追っていた。
――ブロッケス……。
一定の距離を保ちながら。
ユリアは静かに、その背中を追った。
礼拝堂を出た人々は、それぞれの部屋へと散っていく。
廊下は少しずつ静けさを取り戻していた。
やがて。
ブロッケスが一人になったところで、足を止める。
そして、ゆっくりと振り返った。
「さて」
「いったい、どういったご用件でしょうか?」
ユリアは一瞬だけ目を見開く。
後をつけられていることには、とっくに気付いていたらしい。
だが、すぐに口元へ笑みを浮かべた。
「十五年前の事件について」
「お伺いしたいことがあります」
ブロッケスの表情が、ほんの僅かに動く。
「……十五年前?」
「ええ」
「ライヘンバッハ国王夫妻殺害事件です」
一瞬だけ。
その瞳が鋭く揺れた。
だが次の瞬間には、もう何事もなかったかのように口を開く。
ブロッケスは何事もなかったかのように口を開く。
「その件ですか」
「確かに当初は、事件として捜査を進めていました」
「ですが」
「調査を重ね、総合的に判断した結果」
「事故として処理しました」
「それ以上でも」
「それ以下でもありません」
淡々とした口調だった。
まるで十五年前の出来事など、すでに過去の記録に過ぎないと言わんばかりだった。
ユリアは思わず一歩踏み出す。
「明らかに殺害された痕跡があったのに!?」
ブロッケスは静かにユリアを見つめる。
「明らかに……ですか」
「そのような話を」
「あなたは、どこで知ったのです?」
ユリアは息を呑む。
ブロッケスは続けた。
「少なくとも」
「あなたのお歳で知り得る話ではありません」
その鋭い視線に。
ユリアは一瞬だけ言葉を失う。
それでも視線を逸らさなかった。
「この事件には」
「王妃が関わっているから……」
その言葉を最後まで聞くことなく。
ブロッケスは静かに口を開く。
「それ以上は、おやめなさい」
低く。
しかし、有無を言わせぬ声だった。
「確証もないまま」
「王妃へ疑いを向ければ」
「王家は揺らぎます」
「国内は二つに割れ」
「他国との関係にも、大きな影響を及ぼしかねません」
一拍置く。
ブロッケスは真っ直ぐユリアを見つめた。
「この国を終わらせる覚悟が」
「あなたには、あるのですか?」
ユリアは、その言葉に固まった。
何も言い返せない。
静かな沈黙だけが流れる。
ブロッケスは踵を返した。
「話は終わりです」
「もうお部屋へお戻りなさい」
それだけ言い残すと。
薄暗い廊下の奥へ、静かに歩き去っていく。
ユリアは、その背中を見つめたまま立ち尽くしていた。
動くことができない。
胸の奥へ。
重い言葉だけが残っていた。
――この国を終わらせる覚悟……。
その様子を。
廊下の柱の陰から、一人の男が静かに見つめていた。
アルベリヒだった。
その拳は、強く握り締められていた。




