第三十話 浄夜
二月三日。
夜。
ユリアは静かに自室を出た。
――アルベリヒに接触しやすいのは……。
――夜会が終わったあとね。
廊下を歩く。
やがて夜会会場近くの物陰へ身を潜めた。
しばらくすると。
会場の扉が開く。
議会関係者や貴族たちが、次々と廊下へ姿を現した。
談笑しながら歩く者。
足早に立ち去る者。
その人波の中に。
ユリアは目的の人物を見つける。
――いた。
――アルベリヒ。
アルベリヒは俯き加減に歩いていた。
表情は暗い。
どこか周囲を気にするように視線が揺れている。
――帳簿のことが。
――よほど気になっているみたいね……。
ユリアは人波へ紛れ込み、一定の距離を保ちながら後を追う。
やがて人々は、それぞれの部屋へ散っていく。
廊下から人影が消えた。
残るのはアルベリヒ一人。
ユリアは静かに歩み寄る。
「アルベリヒ卿」
不意に背後から名を呼ばれたアルベリヒは、肩を大きく震わせた。
足を止める。
ゆっくりと振り返る。
怪訝そうな表情でユリアを見つめた。
「……何か御用ですか?」
視線が頭の先から足元までを探るように動く。
「申し訳ありませんが、急いでおりますので……」
そう言い残すと、再び前を向いて歩き出した。
ユリアはその背中を見つめる。
そして。
口元へ小さく笑みを浮かべた。
「お手紙……」
一拍置く。
「読んでいただけましたか?」
その瞬間だった。
アルベリヒの動きが止まる。
ゆっくりと振り返る。
顔から血の気が引いていく。
「お前が……」
目を見開く。
「帳簿を……!」
思わず声を荒らげる。
はっと我に返ると、慌てて口を押さえた。
周囲を見渡す。
誰もいないことを確認すると、小声で言う。
「ここではまずい……」
「私の部屋はすぐそこだ」
「そこで話をさせてくれ」
ユリアは静かに微笑んだ。
「ええ」
短く頷く。
そして。
アルベリヒの後ろを、ゆっくりと歩き始めた。
アルベリヒは自室の扉を開けた。
「入ってくれ」
ユリアは静かに部屋へ足を踏み入れる。
アルベリヒは背後で扉を閉める。
鍵を掛けた。
その音が静かな部屋へ響く。
振り返る。
その顔には、もはや余裕などなかった。
「帳簿はどこだ……」
声が震える。
「返せ……!」
「早く返すんだ!」
叫ぶような声だった。
ユリアは微笑みながら椅子へ腰を下ろす。
「まあ、落ち着いてください」
そして、穏やかな口調のまま続けた。
「それにしても……」
「前国王夫妻殺害に」
「あなたまで加担していたとは」
アルベリヒの表情が強張る。
だが、すぐに乾いた笑みを浮かべた。
「……帳簿に書いてあったことか」
「あんなもの」
「誰が信じるというんだ」
一歩踏み出す。
「それに……」
「事件は事故として処理された」
「今さら何を言ったところで変わらん」
ユリアは静かに目を細めた。
――なるほど。
――まだ主導権を握れると思っているのね。
ユリアは口元へ笑みを浮かべる。
「あの帳簿……」
「王妃やティルが見たら」
「どう思うかしらね」
その瞬間だった。
アルベリヒの顔から笑みが消える。
身体が強張った。
「……やめろ」
掠れた声。
ゆっくりと懐へ手を入れる。
ユリアはその動きを静かに見つめた。
「その短剣で」
「私を殺そうとでも?」
アルベリヒの動きが止まる。
一瞬だけ躊躇する。
だが。
ゆっくりと短剣を抜いた。
呼吸は荒い。
手は震えていた。
ユリアは、その様子を見ても微笑みを崩さない。
「いいですわよ」
「私を殺しても」
一拍置く。
「ただ――」
「私に何かあれば」
「あの帳簿は」
「王妃の手元へ届くようになっています」
もちろん。
嘘だった。
だが、表情には一切出さない。
ユリアは静かに続ける。
「王妃やティルが」
「あの帳簿を読んだら」
「あなたは無事で済むかしら?」
アルベリヒの呼吸が止まる。
震える手から。
短剣が床へ落ちた。
乾いた音が、静かな部屋へ響く。
そのまま。
膝から崩れ落ちた。
項垂れたまま、何も言えない。
ユリアはその姿を静かに見つめる。
――やっぱり。
――あの二人は。
――アルベリヒですら、切り捨てるつもりなのね。
ユリアは静かに口を開いた。
「アルベリヒ卿」
「私は、あなたと良い関係を築きたいの」
アルベリヒは項垂れたまま立ち上がる。
もう抵抗しても無駄だと悟ったのだろう。
力なく口を開く。
「……目的は何なんだ」
ユリアは穏やかに微笑んだ。
「最終的には……」
一拍置く。
「王妃とティルよ」
その言葉に。
アルベリヒの表情が強張る。
「やめておけ……」
「命はないぞ……」
ユリアは肩を竦める。
「分かっているわ」
あまりにもあっさりとした返事だった。
アルベリヒは思わず声を荒らげる。
「なら、どうして!」
ユリアはその言葉を遮るように続けた。
「まずは、順番に聞いていくわ」
「十五年前」
「あの事件の日」
「あなたは、どうして現場に居合わせたの?」
アルベリヒは苦しそうに首を振る。
「……俺は何も知らない」
ユリアは黙って見つめる。
その視線に耐えきれず、アルベリヒは狼狽えた。
「本当だ……」
「あの日の夜」
「俺は書類を届けに行っただけなんだ」
「フレイア様と……ティル様のところへ」
ユリアは静かに尋ねる。
「書類?」
「どんな書類だったの?」
アルベリヒは首を横へ振る。
「中身は知らない」
「当時の外務卿から」
「フレイア様へ届けてくれと頼まれていただけだ」
ユリアは一瞬考え込む。
――書類……。
――何だったのかしら。
気にはなった。
だが、今はそこではない。
「それで?」
「書類を届けに行った時」
「王妃が、……前国王夫妻を殺していた」
「そして」
「あなたは返り血を浴びた王妃を匿った」
アルベリヒは両手で顔を覆う。
「俺は……」
「気が動転していたんだ」
「どうして加担してしまったのか……」
「今でも後悔している」
ユリアの瞳が鋭く光る。
「だったら!」
「どうして王妃の犯行を公にしないの!」
アルベリヒも負けじと声を張り上げた。
「言ったところで何になる!」
「証拠は何一つ残っていない!」
「それに」
「当時、審問院が捜査を打ち切ったんだ!」
その勢いは長く続かなかった。
アルベリヒは力なく俯く。
「……もう無理なんだ」
「今さら何を言っても」
「俺が殺されて終わりさ」
「フレイアとティルに……」
ユリアは静かにアルベリヒを見つめた。
「安心しなさい」
「私はあなたを売ったりはしないわ」
「あなたが正直でいてくれる限りは」
アルベリヒはゆっくりと顔を上げる。
ユリアは穏やかな口調で続けた。
「もう少しだけ、聞かせてくれるかしら」
「当時の外務卿は」
「どんな書類をフレイアへ渡していたの?」
「本当に知らないの?」
アルベリヒは力なく首を振った。
「ああ……」
「俺はただ、届けろと言われただけだ」
「当時の俺は役職もない下っ端だった」
「届けるだけが仕事だったんだ」
「ただ……」
「頻繁に届けていたことだけは覚えている」
ユリアは静かに目を細める。
「その外務卿は?」
アルベリヒは短く答えた。
「もう死んでいる」
「事故だった」
一拍置く。
「……だが」
「俺は口封じだったと思っている」
ユリアは小さく息を呑んだ。
驚き。
そして、どこか納得するような感情が入り混じる。
「そう……」
小さく呟く。
そして、すぐに話題を変えた。
「審問院長ブロッケス」
「彼と接触したいのだけれど」
「事件の隠蔽に関わっているはずよ」
「何か弱みになりそうなことは知らない?」
アルベリヒは首を横へ振る。
「分からない」
「ブロッケスとは表向きの付き合いしかない」
「ほとんど接点はないんだ」
ユリアは少し俯く。
「そうですか……」
その言葉を聞くや否や。
アルベリヒは静かに口を開いた。
「ただ……」
「今の王宮の要人は」
「三種類しかいない」
ユリアは顔を上げる。
アルベリヒはゆっくりと続けた。
「一つ目は」
「ケーテンのような、排除できない人物だ」
「迂闊に敵へ回せば」
「何をするか分からない」
「そういう人間だ」
「そんな例外は、ケーテンくらいだろう」
少し間を置く。
「二つ目は」
「利害が一致している人物」
「ティルがそうだ」
さらに続ける。
「そして三つ目」
「弱みを握られている人物だ」
アルベリヒは自嘲するように笑った。
「……俺がそうだ」
「都合よく使われる人間」
「外務卿になれたのも」
唇を強く噛み締める。
「その代償だった」
静かな沈黙が流れる。
やがて。
アルベリヒは低い声で続けた。
「証拠はない」
「だが……」
「俺と同じだ」
「そう考えるしか説明がつかない」
ユリアは静かに目を伏せた。
まだ確証はない。
だが。
ブロッケスにも、必ず付け入る隙がある。
そう確信できた。
自然と口元が緩む。
「ありがとう」
小さく微笑む。
「私はこれからも動くわ」
「あなたは余計なことをしないで」
「それだけで十分よ」
一歩、扉へ向かう。
そして、立ち止まる。
振り返ることなく言った。
「何か思い出したことがあれば」
「また聞きに来るわ」
そう言い残し。
ユリアは部屋を後にした。
静かに扉が閉まる。
部屋には沈黙だけが残った。
アルベリヒは、その場に立ち尽くしていた。
力が抜ける。
そのまま壁へ背を預けるように崩れ落ちた。
両手で顔を覆う。
「俺は……」
掠れた声が漏れる。
「いったい……」
「何をやっているんだ……」
十五年前。
あの日。
真実を話していれば。
何か違っていたのだろうか。
今さら、そんなことを考えても遅い。
「どうすれば……いいんだ……」
答える者はいない。
静まり返った部屋に。
アルベリヒの小さな呟きだけが、虚しく消えていった。




