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忘却曲線上の悪役令嬢――死に戻るたび、世界は私を忘れていく  作者: 直助
第一幕 祝福なき王女

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第二十九話 悲円舞

 二月一日。


 朝。


 ユリアは卓上暦を一枚めくった。


 静かに息を吐く。


 ――さて……。


 ――そんなに慌てる必要もないかしら。


 帳簿は手に入った。


 アルベリヒはこちらの存在に気付いていない。


 今はこちらが一歩先を進んでいる。


 ――まずは朝食ね。


 ユリアは卓上のベルを鳴らした。


 ほどなくして侍女が部屋へ入ってくる。


「朝食をお願い」


「それと、トマトの蜜煮は外してちょうだい」


「かしこまりました」


 侍女は一礼すると、部屋を後にした。


 しばらくして。


 朝食を運んできたのは、リゼだった。


 あの日と変わらない穏やかな笑顔。


 だが、その瞳に親しみはない


 ユリアは小さく微笑む。


「ありがとう」


 リゼも穏やかに微笑み返す。


「失礼いたします」


 そう言って部屋を出ていく。


 ユリアは静かに朝食へ手を伸ばした。


 そして。


 頭の中で、これまでの情報を整理していく。


 ――お父様とお母様を殺したのは。


 ――やっぱり、王妃だった。


 もう疑う余地はない。


 アルベリヒの帳簿。


 そして、自分の記憶。


 二つが一致した。


 ユリアは静かに唇を噛む。


 ――ティルは……。


 ――アルベリヒとは違う。


 あいつは隠蔽へ積極的に加担していた。


 正面から揺さぶっても、簡単に崩れる相手ではない。


 ――まだ。


 ――王妃とティルへ直接接触するのは危険ね。


 ユリアはナイフとフォークを置いた。


 ――まずは、アルベリヒ。


 ――あいつをこちら側へ引き込む。


 そして。


 脳裏に、帳簿で見た一人の名前が浮かぶ。


 ――次は、審問院長ブロッケス。


 ――アルベリヒを使って接触できれば……。


 ユリアは静かに紅茶へ口をつけた。


 その瞳には、もう迷いはなかった。


 昼を少し過ぎた頃。


 ユリアは窓の外へ目を向けた。


 ――まあ。


 ――いつでもいいんだけど。


 ――そろそろ出ましょうか。


 静かに立ち上がる。


 部屋を出ると、廊下を歩き始めた。


 向かう先は、アルベリヒの自室。


 ユリアの部屋とは別棟。


 人気の少ない廊下を進み、目的の扉の前へ辿り着く。


 周囲を見渡す。


 誰もいない。


 ユリアは懐から一通の封筒を取り出すと、扉の下の隙間へ静かに滑り込ませた。


 ――また。


 ――反応を楽しみましょうか。


 小さく微笑み、その場を後にする。


 廊下には、ちらほらと貴族たちの姿があった。


 ユリアへ視線を向ける。


 誰だろう。


 そんな表情だった。


 ユリアは何事もないように歩き続ける。


 やがて。


 自室へ続く長い廊下へ差しかかった。


 その先。


 扉の前へ、一人の少女が立っている。


 ――エルザ。


 ユリアは小さく目を細めた。


 ――まだ……。


 ――記憶の片隅に、私のことが残っているのかしら……。


 そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 近くで掃除をしていた侍女へ声を掛けた。


「奥の部屋へ、お茶をお願いできるかしら」


 侍女は一瞬、不思議そうな表情を浮かべた。


 だが、すぐに頭を下げる。


「畏まりました」


 ユリアは静かにエルザへ歩み寄った。


「エルザ様」


「私の部屋で、お茶でもいかがですか」


 エルザは戸惑ったように瞬きを繰り返す。


 それでも断ることはなく、小さく頷いた。


 ユリアに促されるまま部屋へ入る。


 席へ案内すると、エルザは静かに腰を下ろした。


 ユリアは微笑む。


「いつも冷めたお茶だったから」


「今日は温かいものを用意するわね」


 エルザは不思議そうに首を傾げた。


 しばらくして。


 コンコン。


 扉が叩かれる。


「どうぞ」


 部屋へ入ってきたのは、侍女のエアだった。


 その姿を見た瞬間。


 エアは驚いたように目を見開く。


「エルザ様!?」


「エルザ様のご指示でしたか?」


 エルザは首を横へ振る。


「いえ……」


 そして、ユリアへ視線を向けた。


 エアもユリアを見る。


 柔らかな笑みを浮かべた。


「そうでしたか」


「こちらのお嬢様ですね」


 その一言に。


 ユリアの表情がわずかに強張る。


 ――お嬢様……。


 分かっていたことだった。


 それでも。


 改めて突き付けられると胸が痛む。


 もう。


 エアの記憶から、ユリア・フォン・ライヘンバッハという存在は消えていた。


 懐かしい顔なのに。


 その瞳には、初対面の相手しか映っていない。


 一瞬だけ視線を逸らす。


 だが、すぐに柔らかな笑みを作り直した。


 エアは一礼する。


「承知いたしました」


「お茶をお淹れいたします」


 静かにお茶を淹れる。


 二人の前へカップを置くと、再び頭を下げて部屋を後にした。


 部屋へ静寂が戻る。


 ユリアは静かにカップを手に取った。


 一口飲む。


 どこか寂しそうな横顔だった。


 エルザは心配そうにユリアを見つめる。


「どう……されました?」


 ユリアは小さく笑う。


「いえ」


「何でもありません」


 一度言葉を止める。


 そして、小さく呟いた。


「ただ……」


「忘れられていくのは、少し寂しいなって」


 エルザは少し考えるように俯いた。


 やがて、ゆっくりと顔を上げる。


「でも……」


「忘れられても」


「また積み重なっていくんじゃないですか?」


 ユリアは目を瞬かせた。


 その言葉に。


 ユリアは静かに目を伏せた。


 ――そうね……。


 そして、小さく呟く。


「ありがとう……」


 けれど。


 その積み重ねさえ、また失われてしまうことを。


 エルザは。


 知らない。





 夜。


 アルベリヒは公務を終え、自室への廊下を歩いていた。


 だが。


 心が休まることはなかった。


 脳裏に浮かぶのは、あの帳簿だけ。


 ――あの帳簿……。


 ――とにかく見つけなければ……。


 ――誰かに読まれていたら……。


 考えれば考えるほど、胸の鼓動は速くなる。


 アルベリヒは足早に自室へ戻った。


 扉を開け、中へ入る。


 そして。


 扉を閉めようとした、その時だった。


 足元に、一通の封筒が落ちていることへ気付く。


 ――なんだ……?


 ゆっくりと拾い上げる。


 表を見る。


 裏を見る。


 差出人の名はない。


 アルベリヒの表情が強張る。


 ――何も書いていない……。


 ――いったい、誰だ……?


 嫌な汗が背中を伝う。


 震える指で封を切る。


 中には、一枚の紙だけが入っていた。




『外交資料庫の奥の本棚』


『十五年前のあの帳簿』


『すべて読みました』


『預かっています』




 その瞬間。


 アルベリヒの顔から血の気が引いた。


 紙を持つ手が小刻みに震える。


 呼吸が浅くなる。


 ――誰だ……。


 ――いったい、誰なんだ……。


 喉が渇く。


 額から汗が流れ落ちる。


 ――とんでもないことになった……。


 アルベリヒは弾かれたように扉を開け放つ。


 廊下を見渡す。


 誰もいない。


 静まり返った廊下だけが続いていた。


 ゆっくりと扉を閉める。


 数歩後ずさる。


 膝から力が抜けた。


 そのまま床へ崩れ落ちる。


 震える手から紙が零れ落ちた。


 アルベリヒは、それを拾い上げることさえできなかった。


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