第二十五話 巡環
フレイアは、何度繰り返しただろうか。
一月三十一日。
夜。
ライヘンバッハ王妃へ短剣を突き立てる。
返り血が頬を濡らす。
その身体を階段の下へ突き落とす。
そして。
ゆっくりと階段を下りる。
その先には。
泣き叫ぶ幼い少女。
ユリア・フォン・ライヘンバッハ。
短剣を向ける。
振るう。
気が付けば。
また階段の上に立っていた。
頬には返り血。
右手には。
人を殺した鈍く重い感触だけが残っている。
――どうしても……。
――また、ここへ戻ってしまう……。
何度繰り返しても。
何一つ変わらない。
その感触だけが積み重なっていく。
フレイアは絶望した。
――もう……。
――無理だ……。
ライヘンバッハ王妃を階段の下へ突き落としたあと。
フレイアは、その場から動けなかった。
階段を下りることができない。
右手がわずかに震えていた。
背後ではティルが慌てて王妃へ駆け寄る。
肩を揺する。
何かを叫んでいる。
その声は、まだ耳へ届かない。
少し離れた場所では、アルベリヒが腰を抜かしたまま立ち上がれずにいた。
やがて。
ティルの声だけが、ゆっくりと耳へ届く。
「フレイア様!」
「お気を確かに!」
フレイアは、はっと我に返る。
階段の下を見る。
そこに、もう泣き叫ぶ少女の姿はなかった。
ユリア・フォン・ライヘンバッハは。
ライヘンバッハ王妃の傍らで、気を失っていた。
ティルは青ざめた表情のまま立ち上がる。
必死に冷静さを保ちながら口を開いた。
「まだ……目撃者はおりません」
「今から王宮衛兵を呼びます」
「ライヘンバッハ国王と王妃は、何者かに殺害された」
「……そういうことにいたします」
そう言うと、ティルはすぐにアルベリヒへ向き直る。
「フレイア様を、早く部屋へ!」
「その血の付いた姿を誰かに見られてはまずい!」
「アルベリヒ!」
「早く立て!」
その声に、アルベリヒははっと我に返る。
震える足で立ち上がった。
ティルはフレイアの手から短剣を静かに受け取る。
刃に付いた血を一瞥すると、そのまま懐へしまい込んだ。
「フレイア様」
返事はない。
アルベリヒはフレイアの肩へ腕を回す。
支えるように身体を抱き寄せると、一歩ずつその場を離れていった。
ティルは二人の姿を見届ける。
そして踵を返し、王宮衛兵を呼ぶため走り出した。
それから幾度となく。
意識を失ったまま眠るユリアの枕元へ立つ。
静かに首へ手を掛ける。
力を込める。
幼い身体が動かなくなる。
その瞬間。
世界が暗転する。
目を開けば。
一月三十一日の夜。
再びライヘンバッハ王妃へ短剣を突き立てていた。
またある時は。
眠るユリアの胸へ短剣を突き立てた。
また世界が暗転する。
何度繰り返しても。
結果は変わらない。
目を開けば。
また、あの夜だった。
――どうやっても……。
――あの娘を殺すことは、できない……。
フレイアは自らの右手へ目を落とす。
震えていた。
積み重なったのは。
人を殺した感触。
人の命を奪うたび。
その感触だけが右手へ残り続ける。
もう。
自分の手では殺せない。
フレイアは静かに目を閉じた。
――少しずつ……。
――あの娘の存在を、王宮から消していくしかない……。
その後。
王宮ではライヘンバッハ国王夫妻殺害事件の捜査が始まった。
だが。
新たな国王には、ローエン・フォン・ヴォルクナーが即位する。
ティルは新国王ローエンとフレイアに仕え、秘書官として審問院へ働きかけた。
事件は審問院の判断により打ち切られる。
捜査資料は封印され。
国王夫妻殺害事件は、闇へ葬られた。
やがて。
王宮内でも、その死は事故として語られるようになる。
そして。
ユリア・フォン・ライヘンバッハという存在もまた、少しずつ王宮から消えていった。
夜はさらに深くなっていた。
ユリアは自室の椅子へ腰を下ろし、静かに思考を巡らせる。
――王妃……。
――フレイア……。
まだ分からない。
もう少し。
何か手掛かりはないかしら……。
処刑や……。
この前殺されたことも……。
何か関係があるのかもしれない……。
考え続けるうちに。
いつしか意識は途切れていた。
次に目を開けた時。
窓の外はすっかり明るくなっていた。
椅子へ座ったまま眠ってしまっていたらしい。
ユリアは目を擦る。
その時だった。
コンコン。
扉が叩かれる。
顔を上げると、すでに扉は静かに開き始めていた。
給仕が朝食を運んできたのだ。
リゼではない。
見慣れない給仕だった。
ユリアは朝食を口に運びながら、考え続ける。
――何か手掛かりになるものは……。
――次は、どこを調べれば……。
やがて朝食は片付けられた。
部屋には再び静寂が戻る。
ユリアは椅子へ座ったまま、考え続けていた。
その時だった。
立ち上がろうとした瞬間。
ふいに視界が揺れる。
――何……?
身体がふらつく。
次の瞬間。
息が詰まる。
胸の奥が焼けるように熱い。
「うっ……」
思わず口元を押さえた。
指先へ温かなものが伝う。
ゆっくりと手を離す。
赤い。
――血……?
その言葉が頭を過った時には、もう遅かった。
視界が急速に暗く染まっていく。
膝から力が抜ける。
椅子から崩れ落ちるように床へ倒れた。
意識が遠のいていく。
ユリアは激しく息を吸い込み、身体を起こした。
寝台の上。
窓の外は暗い。
ゆっくりと卓上暦へ視線を向ける。
一月三十一日。
――また……。
――殺された……。
ユリアは静かに唇を噛む。
――私が動くたびに。
――誰かが私を殺している……。




