第二十一話 対位法
二月三日。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
ユリアは鏡の前で最後に身だしなみを確認する。
そして。
静かに部屋の扉を開いた。
薄暗い廊下。
壁に掛けられた燭台の火が揺れている。
長い廊下の先は闇へ溶けていた。
ユリアは足早に歩き出す。
――毎度腹が立つわ。
王宮の端。
人の往来も少ない区画。
本来なら王族が住むような場所ではない。
それなのに。
今の自分はここへ追いやられている。
ユリアは眉をひそめた。
――存在まで消されて……。
部屋割り表。
切り取られた記録。
思い出すだけで胸の奥がざわつく。
だが。
今は考えている場合ではない。
ユリアは気持ちを切り替えるように歩みを速めた。
やがて。
夜会の会場へ辿り着く。
扉をくぐる。
高い天井。
煌びやかなシャンデリア。
壁際には料理や酒が並べられていた。
既に集まっている貴族たちは、小さな輪を作りながら談笑している。
立食形式の夜会だった。
ユリアは周囲へ視線を巡らせる。
王妃の姿を探した。
その時だった。
視線の先にエルザの姿を見つける。
エルザもまたユリアに気付いたようだった。
一瞬だけ目が合う。
エルザは小さく頭を下げた。
だが。
すぐに視線を逸らしてしまう。
その隣にはティルの姿があった。
ユリアは小さく息を吐く。
――まあ。
――仕方ないわね。
王妃から近付くなと言われているのだ。
あれが精一杯なのだろう。
ユリアは再び会場を見渡した。
だが。
王妃の姿はまだ見当たらない。
その時。
周囲から向けられる視線に気付く。
好奇心。
困惑。
そして僅かな警戒。
――誰だ?
そんな声が聞こえてきそうだった。
ユリアは肩を竦める。
――まあ。
――誰だか分からないなら好都合ね。
少なくとも。
追い出されそうな雰囲気ではなかった。
そうしていると。
ふと、会場の入り口がざわめいた。
ユリアはそちらへ視線を向ける。
――入ってきた。
現王妃。
フレイア・フォン・ヴォルクナー。
豪奢なドレスを纏った王妃は、堂々とした足取りで会場へ姿を現した。
ユリアは鋭い視線を向ける。
――あいつが鍵を握っている。
その時だった。
一瞬。
二人の視線が重なる。
王妃の瞳がわずかに見開かれたような気がした。
驚いたのか。
それとも別の感情か。
だが。
次の瞬間には何事もなかったかのように視線を逸らしていた。
王妃はそのまま集まっていた貴族や議員たちの輪へ加わる。
優雅な笑み。
穏やかな声。
誰もが自然と王妃の周囲へ集まっていった。
やがて。
王妃に続いて国王も姿を現す。
国王は会場の中央へ進むと、参加者たちへ簡単な挨拶を行った。
だが。
堅苦しい会ではない。
乾杯が終われば、すぐに元の空気へ戻る。
談笑。
笑い声。
食器の触れ合う音。
夜会は穏やかに始まった。
ユリアは壁際の料理へ手を伸ばす。
適当に皿へ取り分けながらも、意識は別のところにあった。
視線の先。
王妃。
そのすぐ後ろにはティルが控えている。
少し離れた場所にはエルザの姿もあった。
そして。
王妃と親しげに言葉を交わしている男たち。
審問院長ブロッケス。
外務卿アルベリヒ。
ユリアは小さく目を細めた。
――ブロッケス……。
国家反逆事件を受理した人物。
だが。
あの男が勝手に事件を作るとは思えない。
誰かが持ち込んだ。
誰かが証言した。
誰かが記録を提出した。
だから事件になった。
ユリアは王妃を見つめる。
――それは誰……?
答えはまだ見えなかった。
ユリアはふと視線を横へ向けた。
壁際。
そこには内務卿ケーテンの姿があった。
一人で静かに食事をしている。
誰かと談笑する様子もない。
ユリアは小さく目を細めた。
――ケーテン……。
ライヘンバッハ家に近い立場だった人。
だからだろうか。
今の王宮では、どこか浮いて見える。
王妃の周囲に集まる者たちとは対照的だった。
だが。
それ以上のことは分からない。
結局。
これといった収穫もないまま時間だけが過ぎていった。
やがて。
定刻になったのだろう。
貴族たちは自然と会場を後にし始める。
ユリアもまた、人の流れに紛れて出口へ向かった。
そして。
会場を出た先の廊下。
誰かの話し声が聞こえてきた。
ユリアは足を止める。
聞き覚えのある声だった。
王妃。
そしてティル。
少し離れた場所で話をしている。
王妃の声は抑えられていた。
だが。
どこか苛立っているように聞こえた。
「どうしてあの娘がいたの?」
ティルは頭を下げている。
返事までは聞き取れない。
その時だった。
王妃がこちらへ顔を向けた。
一瞬。
鋭い視線が向けられる。
だが。
次の瞬間には柔らかな笑みへ変わっていた。
「ユリアさん」
穏やかな声。
「今夜はお越しいただき、ありがとうございました」
まるで何事もなかったかのようだった。
ユリアも微笑みを作る。
「こちらこそ」
軽く頭を下げる。
それ以上は何も言わない。
そのまま二人の横を通り過ぎた。
振り返ることもなく歩き続ける。
長い廊下。
静かな足音だけが響く。
そして。
自室へ続く廊下へ差しかかった時だった。
ふと。
ユリアの足が止まる。
――あれ……?
胸の奥がざわつく。
今になって違和感が浮かび上がってきた。
リゼは忘れた。
クルトも忘れた。
――どうして……?
王妃は。
私の名前を――。
覚えているの……?




