第十三話 前奏曲
三月二十日。
湖畔の家には、穏やかな時間が流れていた。
ユリアはマテウスの用意した食事を口に運ぶ。
だが。
時折、視線は玄関の扉へ向かう。
窓の外へ向かう。
誰かが来るのではないか。
兵士たちが現れるのではないか。
そんな考えが頭から離れなかった。
――ここなら大丈夫。
そう自分へ言い聞かせる。
けれど。
胸の奥の不安は消えてくれない。
マテウスはそんなユリアの様子を何も言わず見守っていた。
窓の外では湖面が静かに揺れている。
風の音だけが聞こえていた。
そして。
何事もないまま時間は過ぎていく。
昼が過ぎ。
夕暮れが訪れ。
やがて夜になった。
湖畔の静けさは、さらに深くなる。
ユリアは窓際に立ち、暗い湖を見つめていた。
三月二十日。
本来なら審問が行われていた日。
その日が、もうすぐ終わる。
――あと少し……。
――あと少しで終わる……。
ユリアは小さく息を吐いた。
――もうこれできっと、大丈夫……。
ユリアには、わずかな安堵があった。
だが同時に。
まだ三月三十一日という日付への不安も消えてはいない。
その二つが胸の奥で混ざり合っていた。
時間の感覚を忘れるように。
ユリアは同じ景色の中で日々を過ごした。
湖。
風。
静かな食卓。
何度も審問を受け。
何度も処刑されたユリアにとって。
その変わらない日常は心地良かった。
三月二十一日。
三月二十二日。
そして――。
卓上暦の日付は静かに進んでいく。
だが。
ユリアの中では、日付の感覚そのものが薄れていった。
そんなある日。
外出していたマテウスが戻ってくる。
いつもより口数が少ない。
表情も晴れない。
ユリアは不思議そうに顔を上げた。
マテウスは椅子へ腰を下ろすこともなく口を開く。
「明日……」
一度言葉を切る。
「王都の広場で処刑が執行されるそうです」
その瞬間。
ユリアの顔から血の気が引いた。
視線が自然と卓上暦へ向かう。
三月三十日。
胸が大きく脈打った。
言葉が出ない。
マテウスは続ける。
「国家反逆罪に関わった者だとか……」
「王宮の関係者らしいのですが……」
国家反逆罪。
王宮の関係者。
その言葉を聞いた瞬間。
ユリアの意識が、遠のいた。
音が遠くなる。
目の前にいるはずのマテウスの姿も、どこかぼやけて見えた。
どういうことなのか。
整理がつかない。
ただ。
心臓だけが、嫌な音を立てている。
頭の中に、一人の人物が浮かぶ。
――エア……。
ユリアは小さく首を振った。
――そんなわけない。
――絶対に違う。
そう言い聞かせる。
けれど。
一度浮かんだ名前は、もう消えてくれなかった。
ユリアは荒れる心を押さえ込むように、小さく息を吐いた。
「誰が処刑されるの……?」
マテウスは静かに首を振る。
「分かりません」
「王宮の関係者としか……」
それ以上の情報はないらしい。
だが。
ユリアの心臓は少しも落ち着かなかった。
むしろ鼓動は速くなっていく。
嫌な予感だけが、胸の奥で膨らみ続けていた。
その夜。
ユリアは眠ることができなかった。
窓際に立ち、外を見つめる。
湖面には月光が静かに降り注ぎ。
揺れる水面は、砕けた銀を散りばめたように淡く輝いていた。
静かだった。
あまりにも静かだった。
だからこそ。
胸の奥の不安だけが際立つ。
ユリアは窓枠を握り締める。
そして。
脳裏に浮かんだ名前から目を逸らせなかった。
――もし。
――エアだったら……。




