第十二話 牧歌
湯気の立つ紅茶が置かれる。
老人は静かに椅子へ腰を下ろした。
「そうですか」
「エアがここを……」
どこか納得したように、小さく頷く。
ユリアは両手でカップを包み込んだ。
まだ呼吸は落ち着かない。
走り続けたせいか。
足も小さく震えていた。
向かいの席では、老人が静かにユリアを見つめている。
「申し遅れました」
「私、マテウスと申します」
「かつて王宮に仕えておりました」
穏やかな声だった。
ユリアは小さく頷く。
マテウスは少し間を置いてから続けた。
「どうぞ、ご安心ください」
「ここには私しかおりません」
「まずは落ち着かれてください」
そして、湯気の立つ紅茶へ視線を向ける。
「事情は、その後で構いません」
「ただ――」
マテウスは真っ直ぐユリアを見つめた。
「エアが貴女をここへ寄越した以上、よほどの事態なのでしょう」
そう言うと、マテウスはそれ以上語りかけなかった。
まるで、ユリアが自ら話し始めるのを待つように。
窓の外では、穏やかな湖面が揺れている。
春の陽光が反射し、きらきらと輝いていた。
しばらくして。
マテウスが小さく息を吐く。
「国家反逆罪……」
「なんと……」
驚きを隠せない様子だった。
ユリアは冷めかけた紅茶へ視線を落とす。
「私は……」
「何もしていない……」
「だから、エアに頼って……」
マテウスは静かに頷いた。
「そうですか……」
「エアは、私がまだライヘンバッハ家に仕えていた頃に見習いとして入ってきました」
「その頃から、よく気がつく娘でしてな」
懐かしむような口調だった。
マテウスはゆっくりと立ち上がる。
そして窓際へ歩み寄った。
湖を眺めながら呟く。
「私が王宮を去ってから……」
「大きく変わってしまった」
短い沈黙。
「私がここで隠居暮らしを始めてから、およそ一年後」
「ライヘンバッハ国王と王妃が亡くなられた」
「ヴォルクナー家が王位についてからは……」
「あまり良い噂を聞きません」
マテウスは振り返る。
その視線が、ユリアの蒼銀の瞳へ向けられた。
わずかに目を細める。
「それにしても……」
「まさか、ライヘンバッハ家の血を引く方がいらっしゃったとは」
ユリアは小さく眉を動かした。
何かが引っ掛かる。
けれど。
その正体は分からない。
考えようとしても、
上手くまとまらなかった。
マテウスは静かに続けた。
「私にできることであれば」
「できる限りのことはいたします」
その言葉を聞いて。
ユリアは初めて、冷めた紅茶へ口をつけた。
湖畔の家。
ゆっくりと時間が流れていた。
窓の外には穏やかな湖。
風が吹くたび、水面が静かに揺れる。
王宮では常に誰かの視線を感じていた。
歓迎されていない空気。
居場所のなさ。
息苦しさ。
だが。
ここにはそれがない。
豪華な食事も。
華やかな衣装も。
何一つない。
それでも。
不思議と居心地は悪くなかった。
ユリアは窓の外を眺める。
――ずっと、この場所で過ごすのもいいか……。
そんな考えが頭を過った。
時間は静かに流れていく。
三月十六日。
三月十七日。
三月十八日。
三月十九日。
そして――。
三月二十日。
卓上暦の日付を見た瞬間。
ユリアの心臓が大きく脈打った。
審問の日。
本来なら。
あの日。
国家反逆罪を宣告されていた日。
ユリアは無意識に窓の外を見る。
湖は今日も静かだった。
人の気配もない。
追手も来ない。
何も起きない。
――でも……。
――ここなら安全よ。
そう自分へ言い聞かせる。
そして。
小さく息を吐いた。
――このまま。
――時間が過ぎるのを待ちましょう……。




