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忘却曲線上の悪役令嬢――死に戻るたび、世界は私を忘れていく  作者: 直助
第一幕 祝福なき王女

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第十一話 遁走曲

 三月三十一日。


 卓上暦は既に捲られていた。


 ユリアは、その日付を見つめていた。


「待って……」


「どうして……」


「嫌だ……」


 か細い呟き。


 気付けば涙が頬を伝っていた。


 だが。


 それを止める気力も残っていない。


 扉を叩く音が響く。


 ユリアの身体が震えた。


「嫌だ……」


 返事はない。


 返事をすることもできない。


 やがて扉が開く。


 入ってきた兵士たちは無言のままユリアの両脇を掴んだ。


 そのまま部屋の外へ連れ出される。


「待って……」


「どうして……」


 掠れた声は誰にも届かない。


 長い廊下。


 冷たい風。


 群衆の歓声。


 気が付けば。


 ユリアは処刑台へ固定されていた。


 執行人が何かを叫んでいる。


 もう聞こえなかった。


 高く持ち上げられた刃が陽光を反射する。


 ユリアは静かに目を閉じた。


 次の瞬間。


 刃が落ちた。




 ――ぐはっ。


 ユリアは息を呑むようにして目を開けた。


 暗い。


 荒い呼吸。


 震える手を喉へ当てる。


 冷たい刃が落ちた感触が、まだ首に残っていた。


 その瞬間。


 胃の奥が激しく痙攣する。


「っ……」


 ユリアは寝台から転げ落ちた。


 そのまま床へ嘔吐する。


 涙が止まらない。


「ぁ……」


 掠れた声が漏れる。


 吐瀉物の上へ、ぽたぽたと涙が落ちた。


「もう嫌だ……」


 誰に向けるでもない呟きだった。


 ユリアは震える身体のまま、ゆっくりと顔を上げる。


 窓際の卓上暦。


 そこに記されていた日付を見て、息を止めた。


 一月三十一日。


 まただった。


 また、戻っている。


 ユリアは卓上暦を見つめる。


 そして、小さく首を振った。


「もう嫌だ……」


 

 ユリアは一睡もできないまま、朝を迎えた。


 窓から差し込む朝日が眩しい。


 窓際へ歩み寄り、卓上暦を捲る。


 二月一日。


 それを確認すると。


 ユリアは再び寝台へ腰を下ろした。


 何も考えられない。


 考えたくもなかった。


 ただ呆然と、時間だけが過ぎていく。


 不意に。


 扉を叩く音が響いた。


「失礼いたします」


 リゼが部屋へ入ってくる。


 そして。


 床へ視線を向けた瞬間、表情を変えた。


「どうされました!?」


「大丈夫ですか?」


 乾いた吐瀉物。


 昨夜のまま残されていた。


 ユリアは力なく頷く。


「ごめんなさい……」


「片付けてもらえるかしら……」


「かしこまりました」


 リゼは慌てて頭を下げる。


 そのまま清掃道具を取りに向かい、手際よく部屋を片付けていった。


 朝食も運ばれてきた。


 けれど。


 ユリアは一口も手を付けなかった。


 リゼは心配そうな表情を浮かべながらも、それ以上は何も聞かない。


 やがて朝食を下げ、静かに部屋を後にした。


 その後。


 クルトが訪れた気もする。


 何かを話していた気もする。


 けれど。


 ユリアの意識には何も残らなかった。


 ただ時間だけが過ぎていく。



 そして。


 再び扉を叩く音が響いた。


「失礼します」


 聞き慣れた声。


 扉が開く。


 エアだった。


 その姿を見た瞬間。


 ユリアは立ち上がった。


 そして。


 エアへ抱きつく。


「ユリア……?」


 戸惑う声。


 だが。


 ユリアは離れなかった。


 肩を震わせる。


「もう嫌だ……」


 嗚咽混じりの声。


「このままだと私……」


「処刑されるの……」


 涙が止まらない。


 エアは驚いたように目を見開いた。


 けれど。


 すぐに優しくユリアの背へ手を回す。


「落ち着いて、ユリア」


「そんなわけないじゃない」


「悪い夢でも見たのよ」


 そう言いながら。


 エアは子どもをあやすように、そっとユリアの頭を撫でた。


 ユリアは何も言えない。


 ただ。


 その温もりだけに縋りついていた。



 時は無情にも流れていく。


 三月十五日。


 ユリアは卓上暦を捲った。


 その日付を見た瞬間。


 胸の奥が冷たくなる。


 ――また、この日……。


 ――審問。


 ――もう……。


 ――どうしたらいいの……。


 不意に。


 激しく扉を叩く音が響いた。


 ユリアは顔を上げる。


 ――エア……?


 そう思う。


 けれど。


 少し早い。


 前回よりも。


 返事を待たず、扉が開かれる。


 飛び込むように入ってきたのはエアだった。


 廊下を警戒するように見渡し、慌てて扉を閉める。


「ユリア、大変なことになっているの」


 エアは駆け寄り、その肩を掴んだ。


 表情は青ざめている。


 声も震えていた。


「あなたに――」


 一瞬。


 言葉を詰まらせる。


 そして。


「国家反逆の疑いがかけられている」


 ユリアは俯く。


 何も驚かなかった。


 もう知っている。


 その先も。


 全て。


 だが。


 エアはさらに続ける。


「それに……」


「あなたの様子がおかしかったから、

 少し調べてみたの」


 ユリアは反応しない。


 エアは戸惑いながら続けた。


「でも、おかしいの」


「王宮の記録が――」


 そこで。


 ユリアがエアへ縋りついた。


「もう嫌だ……」


 肩が震えている。


「私……」


「処刑される……」


 嗚咽混じりの声。


「助けて、エア……」


 エアは言葉を失った。


 しばらく。


 ただユリアを見つめる。


 そして。


 ゆっくりと頷いた。




 ――分かったわ。




 外套を翻しながら。


 ユリアは石畳の上を駆けていた。


 荒い呼吸。


 胸が苦しい。


 それでも足を止めることはできない。



 ――もうすぐ兵士が来るわ。


 エアの声が脳裏に蘇る。


 ――時間がないの。



 王宮の裏手を走り抜ける。


 その時の光景が断片的に思い出された。



 窓。


 結び合わされたベッドシーツ。


 そして。


 必死な表情のエア。


 ――このシーツを使って。


 ――下へ降りて。


 ――大丈夫。


 震える手で窓枠を掴んだことを思い出す。


 足がすくんだ。


 けれど。


 下から見上げるエアが何度も頷いていた。


 ――急いで。


 ――早く。



 ユリアは唇を噛む。


 石畳を蹴った。



 王宮の裏庭を抜ける。


 人影はない。


 ただ。


 いつ誰かに見つかるか分からなかった。


 ――正門は駄目。


 ――裏門から出るの。


 エアの言葉。


 人気のない裏門を抜ける。


 王宮の外。


 ようやく肺いっぱいに息を吸い込んだ。


 だが。


 安心する暇はない。



 ――南へ向かって。


 ――湖のほとりに家があるわ。


 ――昔、

 ライヘンバッハ家に仕えていた人の。


 ――私も昔お世話になったの。


 ――行けば分かる。


 ――だから早く。



 ユリアは走る。


 ただ走る。


 足は重い。


 肺は焼けるように痛い。


 それでも。


 止まれば全てが終わる気がした。


 遠く。


 木々の向こうに湖面が見え始めていた。


 湖へ向かって。


 ユリアは必死に走り続けていた。


 荒い呼吸。


 重くなった足。


 それでも止まることはできない。



 やがて。


 ユリアは湖畔に辿り着く。


 エアの言っていた通りだった。


 湖のほとりに、一軒の家が建っている。


 周囲に人の姿はない。


 静かな湖畔に、ぽつんと佇んでいた。


 ユリアの胸に、わずかな安堵が広がる。


 けれど同時に。


 ここで拒まれたら終わりだという不安も押し寄せていた。


 ユリアは最後の力を振り絞るように、その家へ駆け寄る。


 そして。


 扉を叩いた。


 返事はない。


 もう一度。


 強く叩く。


 しばらくして。


 扉がゆっくりと開かれた。


 現れたのは、一人の老人だった。


 白髪交じりの髪。


 深く刻まれた皺。


 年老いてはいるが、その立ち姿にはどこか凛としたものがある。


 長年、人に仕えてきた者特有の気配だった。


 老人は怪訝そうに眉をひそめる。


「こんなところに」


「いったい何の用だ?」


 ユリアは息を切らしていた。


 胸が苦しい。


 頭も上手く回らない。


「あの……」


「その……」


 言葉が出てこない。


 老人はさらに訝しげな表情を浮かべる。


 そして。


 ふと、ユリアの顔を見た。


 正確には。


 その瞳を。


 蒼銀に輝く瞳を。


 老人の表情が変わる。


「その瞳は……」


 小さな呟き。


 そして。


 老人の声が震える。


「ライヘンバッハ家の……」


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