第十話 乱調
成人の儀から。
言いようのない胸苦しさが続いていた。
三月三十一日。
呪いのように脳裏へ刻まれた日付。
それを忘れようとしても、忘れることはできない。
抗う術も見つからないまま。
時間だけが過ぎていった。
ある朝。
ユリアは窓際の卓上暦へ手を伸ばした。
一枚、静かに捲る。
三月十五日。
その日付を見た瞬間。
胸の奥が冷たくなる。
――この日。
――エアが部屋へやってきて。
――国家反逆罪の疑いがかけられていると。
――私に告げる。
ユリアはゆっくりと視線を落とした。
――私は、
どうすればいいの……。
答えはない。
処刑。
審問。
そして。
泣きそうな顔で自分を見つめていたエアの姿。
何度も思い出してしまう。
ユリアは机へ突っ伏した。
気付けば、涙が零れていた。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。
ただ。
何も変わらない現実だけが、そこにあった。
そして――。
激しいノックの音が部屋へ響く。
「ユリア様!!」
ユリアの身体が大きく震えた。
恐怖で動けない。
扉へ近付くことすらできなかった。
だが。
返事を待たず、扉が開く。
飛び込むように入ってきたのはエアだった。
廊下を警戒するように見渡し、慌てて扉を閉める。
そして。
机へ伏せるユリアの元へ駆け寄った。
「ユリア、大変なことになっているの」
「ねえ、聞いて!」
エアはユリアの肩を掴み、顔を上げさせる。
その表情は青ざめていた。
声も震えている。
「あなたに――」
一瞬。
言葉を詰まらせる。
そして。
「国家反逆の疑いがかけられている」
ユリアは俯いたまま呟く。
「どうして、
こんなことに……」
「もう、嫌だ……」
エアは息を呑んだ。
そんな反応が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
けれど。
すぐに気を取り直したように言葉を続ける。
「ユリア、聞いて……」
「三月二十日に、
審問があるようです」
「その日まで、
あなたは監視下に置かれます」
その時だった。
扉を叩く音が響く。
エアの表情が凍り付く。
すぐにユリアから離れ、姿勢を正した。
返事を待たず。
扉が開かれる。
騎士団の兵士たち。
そして。
王宮審問官クラウス。
同じだった。
あの日と、何も変わらない。
クラウスは静かにユリアの前まで歩み寄る。
「私は王宮審問官のクラウスです」
低く、よく通る声。
「ユリア様」
一瞬だけ間を置く。
「あなたには、
国家反逆罪の疑いがあります」
ユリアは目を閉じた。
呼吸が止まる。
――同じだった。
何一つ変わらない。
それから先の言葉は、もう頭に入ってこなかった。
監視下へ置かれたユリアは、自室で静かな日々を過ごしていた。
部屋の外には、昼夜を問わず騎士たちの気配がある。
鎧の擦れる音。
時折聞こえる足音。
それだけで、言いようのない落ち着かなさを覚えた。
けれど。
今のユリアには、それを気にする気力すら残っていない。
ただ。
卓上暦を捲るだけの日々だった。
三月十六日。
三月十七日。
三月十八日。
三月十九日。
何も変わらない。
何もできない。
そして――。
三月二十日。
審問の日。
ユリアは卓上暦を見つめていた。
その日付を見ても、もう驚きはない。
ただ。
胸の奥へ重たいものが沈んでいくだけだった。
すると。
扉を叩く音が響く。
ユリアの表情が曇る。
聞き慣れてしまった音。
来るべき時が来ただけだった。
返事を待たず。
扉が開かれる。
入ってきたのは、クラウスだった。
背後には騎士団の兵士たちが控えている。
クラウスは静かに頭を下げた。
「ユリア様」
「今から審問を行います」
感情のない声。
「それでは、別室へ」
そう告げると、クラウスは踵を返した。
ユリアは無言のまま立ち上がる。
兵士たちに促されるようにして、部屋の外へ出た。
長い王宮の廊下。
左右を兵士に挟まれながら、静かに歩いていく。
足音だけが、冷たく響いていた。
ユリアは俯いたまま歩く。
審問。
判決。
処刑。
考えたくなかった。
けれど、その言葉だけは勝手に頭へ浮かんでくる。
ユリアは、審問の行われる部屋へ通された。
重厚な扉が閉まる。
薄暗い室内には、既に数人の見覚えのある姿があった。
正面の席には、もう一人の審問官。
さらに少し後方。
書記官。
そして、ティル・ヨナグリン。
ティルは無表情のまま、静かにユリアを見つめていた。
クラウスは審問官の隣へ腰を下ろす。
ユリアは兵士に促され、中央の席へ座らされた。
背後には兵士たちが立つ。
逃げ場はない。
クラウスが静かに口を開いた。
「これより、審問を開始します」
冷たい声だった。
「あなたは、
ユリア・フォン・ライヘンバッハ様で間違いありませんね」
「ええ……」
ユリアは小さく答える。
クラウスは手元の書類へ視線を落とした。
「あなたには、
リートベルク王国に対する国家反逆の疑いがかけられております」
その後も。
聞き慣れてしまった言葉が続く。
新年の祝賀会。
シャンテール王国。
機密情報の漏洩。
ユリアは俯いたまま、小さく呟いた。
「違う……」
「私はやっていない……」
クラウスは淡々と問い返す。
「反論があるのですね」
ユリアは顔を上げる。
そして。
脳裏に、一人の人物が浮かんだ。
「クルト……」
掠れた声だった。
「書記官のクルトに聞いてください」
クラウスの眉がわずかに動く。
ユリアは必死に言葉を続けた。
「私は祝賀会に出席していません」
「そういうことに参加しない、
私の性格をよく知っている」
「それに会が始まった頃、
クルトは私の部屋へ来ているはず……」
「一月の予定を伝えに」
「だから――」
ユリアは縋るように前を見た。
「クルトなら知っているはずです」
短い沈黙。
やがてクラウスは静かに頷いた。
「分かりました」
そして後方へ視線を向ける。
「書記官クルトを」
「こちらへ」
ほどなくして。
クルトが審問室へ通された。
どこか落ち着かない様子のまま、用意された席へ腰を下ろす。
クラウスは静かにクルトを見つめた。
「クルトに聞きます」
「元日の朝、
ユリア様の部屋を訪れましたか?」
クルトは少し考えるように視線を落とした。
そして。
「申し訳ございません」
「記憶が曖昧で……」
「あまり覚えておりません」
ユリアの肩が小さく震える。
クラウスは淡々と続けた。
「わかりました」
「続けて聞きます」
「ユリア様は、
祝賀会のような催しへ参加されない方だったのですか?」
クルトは困惑したように眉をひそめる。
「申し訳ございません」
「そのようなことは存じ上げません」
「私は予定の伝達を担当しておりますので……」
「ご参加の有無までは……」
言葉はそこで途切れた。
ユリアは目を見開く。
――そんな……。
――どうして……。
クラウスは静かにクルトへ視線を向けた。
「証言、感謝します」
「それで結構です」
クルトは小さく頭を下げる。
一度もユリアと目を合わせないまま、兵士に促されて部屋を後にした。
重たい沈黙が落ちる。
クラウスは静かにユリアを見つめた。
「元日の朝、
ユリア様が自室にいたという証拠も」
「祝賀会へ参加していなかったという証言も存在しない」
ユリアは俯いたまま、小さく呟く。
「待って……」
「どうして……」
声に力はなかった。
クラウスは感情を変えない。
「国家反逆罪を覆す証言は得られませんでした」
静まり返った室内へ、その声だけが響く。
「これにより」
「ユリア・フォン・ライヘンバッハ様への嫌疑は、
確定したものと判断します」
短い沈黙。
そして。
クラウスは淡々と告げた。
「判決を言い渡します」
ユリアは顔を上げない。
もはや反論する気力すら残っていなかった。
「ユリア・フォン・ライヘンバッハ」
一瞬の静寂。
そして。
「国家反逆罪により、死刑に処す」
ユリアは俯いたまま動かなかった。
「待って……」
「どうして……」
掠れた声だけが漏れる。
けれど。
その問いに答える者は、誰もいなかった。
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