09 淫魔の罪
「……あ……」
「やだぁ、リリム……なんで急に、ヘンなコトしようとするんですかぁ……!」
マリーの夜の瞳からはぽろぽろと大粒の涙がこぼれて、なめらかな頬に幾筋も痕を残している。
それを見て、リリムは一瞬で体が硬直した。
食事どころではない。急速に頭が冷えて、全身の血の気が引いていく。
──泣いてる。
ちいさな、こどもが。
「あ……ご、ごめん……ごめん、僕……!」
「リリムのバカ! どいて! あっち行ってください!」
泣きながら真っ赤な顔で怒られて、リリムは慌ててマリーの上から降りた。そのままベッドからも離れて、部屋の隅でマリーの様子をうかがう。
マリーは、ようやく火がついたように泣き出した。
「わあああん! やっぱり悪魔なんですね! 私のコト食べようとしました! わあああああん!」
「ほ、ほんとにごめん! そんなつもりじゃ……」
──本当に、そんなつもりはなかった。
イザベラとの約束通り、ちゃんと汗を舐めるだけのつもりだった。そもそも、マリーみたいな子どもは守備範囲外もいいところで、淫魔としてだって、男としてだって相手にすることはない。
自分が思ってもみない行動をして、リリム自身も動揺していた。
「ほんとにごめん。ごめん。お願いだから、泣かないでよ……」
「わあああああああん! イザベラー! おねえさまー!」
マリーの泣き声は大きくなるばかりで、リリムの胸もどんどん不安に塞がっていった。すぐにここから逃げ出してもいいはずなのに、泣いているマリーがあまりにかわいそうで申し訳なくて、どうしていいかわからない。
どうしよう。じいちゃん、僕どうしたらいい?
真っ白い部屋にただマリーの泣き声だけが響いて、動悸が酷くなる。
「──なにごとですか」
いつの間にか館に入っていたらしいシスター・イザベラが、部屋の入口に立っていた。
「イザベラー! リリムが私のコト食べようとしましたー!」
マリーが泣きながらイザベラに駆け寄った。マリーがぎゅっとイザベラの腰に抱きつくので、銀の鋭いまなざしがリリムへ向けられた。
「……リリム? さっそく誓いを破ったのですか?」
「……いいえ……」
先ほど誓ったのは『そそのかさないこと』だ。
──そそのかすことすら、しなかった。ただ衝動的にマリーを襲おうとした。こんな、小さな子どもを。
思わず唇を噛み締める。
どうしてマリーがあんなにおいしいのかわからない。けれど、理性を失うなんて紳士としてあるまじきことだ。二千年生きたなんて言っても、自分のことも律せないなんて外見と同じ子どもと変わらないだろう。なんて情けない。
外見に引っ張られているのか、思わず瞳に涙がにじむ。それくらい、リリムにとってもショックだった。
泣きわめくマリーと、涙を我慢しているリリムを見て、イザベラは状況を察したらしい。ひとまず、腰にひっついて声を上げて泣いているマリーの頭をなでた。
「……マリー、怖かったですね。今日は宿舎で私と眠りましょうか」
「ッ、はぃ……」
マリーは涙でぐしゃぐしゃになった顔をイザベラの腹に一度押し付けて、一瞬、リリムをにらんだ。
「ッぁ、ごめん! ほんとに……ごめんって、それしか言えないけど……」
なんて言えばいいんだろう。
淫魔は悪魔だ。人間を堕落の道へと誘う罪を背負って生きている。自分の罪にはいつだって自覚がある。だからこそ「うっかり悪事を働く」なんてことはありえない。
そんなつもりじゃなかったんだ、なんて言葉にさほど意味がないことを誰より知っているのが悪魔だった。
「リリムのばーか!」
マリーは涙の残る顔のまま、館をさっさと出て行ってしまった。
「……リリム」
「……申し訳ありません、シスター・イザベラ。貴女に、恥をかかせるつもりはなかったんです……」
せっかくここに置いてくれると言ってくれたのに。
それは、なにか彼女なりの思惑があったにせよ、大半が善意のはずだ。ファウヌスという善性の悪魔を信じて、その縁であるリリムを受け入れてくれたのだ。ファウヌスの顔にも泥を塗ったかもしれない。結婚したばかりのマリエッタにだって。
申し訳なさで消えてしまいそうだった。
「……リリム。顔を上げなさい」
静かな声からは感情が読み取れない。それでも、リリムは長命種の意地で顔を上げた。リリムは本当の子どもではない。責任の取り方くらいわきまえている。
軽蔑のまなざしを覚悟して視線を上げると、意外にもイザベラは微笑みを浮かべていた。
「リリム。そんなにお腹が減っていたんですか?」
「……え……」
戸惑うリリムに、イザベラはすぐ傍まで近寄って来る。膝を床に着いてこちらの顔を覗きこんだ。
「よほど空腹だったようですね。そこまでの飢餓状態とは思わず、かわいそうなことをしました」
イザベラはそう言って自分の人指し指を噛んだ。わずかだが、指先に赤い血が流れる。
その血がにじむ指を、リリムの口元にかざした。
「はい、こちらをどうぞ。汗よりはマシでしょう」
イザベラの言う通り、汗よりは血、血より精液を淫魔は欲する。
けれど、リリムは眉を下げた。
「どうして……」
「約束しましたからね。貴方を飢えるような状態にはしない、と。これでも神に仕える女です。約束は守りますよ」
イザベラがやさしく瞳をすがめた。リリムはますます申し訳ない気持ちになる。
「……マリーも、貴女も……傷つけるつもりなんてなかったのに……」
目の前に差し出された指先からは、うっすらと血が流れていた。
指先は齢を感じるほど使い込まれていて、細かな傷がいくつもあった。関節には打撲痕と思しき痕が残っている。彼女も調査員だったのだろう。
それでも、いや、だからこそその手は美しかった。
そっと指先をなでると、イザベラの口角が上向いた気配がする。
「……お気遣いありがとう。淫魔リリム。ですが、さすがにマリーを食べ尽くしそうなほど飢えているのなら、この身が傷つくことなど大したことではありません。遠慮なくどうぞ」
イザベラはシスターだ。奉仕の女だ。それがたとえ悪魔だろうと、誓いを交わした相手との約定を違えたりはしないのだろう。
リリムは、悲しい瞳でイザベラを見上げた。皺を刻んだ整った顔に、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「……すみません。美しい女性」
──背に腹は代えられない。
リリムはイザベラの指を口に含んだ。舌先に血の味がにじむ。鉄のような味の中、甘い香りと味が潜んでいた。そこから精気を取り込む。
イザベラの血も、処女のものだった。理想的な相手で、いつにない美味。けれど、なぜだろう。
……マリーの方が、おいしい。
それに、精気もマリーの汗の方が濃い気がした。血と汗では比べるべくもないほど精気の量が違うはずなのに。
「…………」
「おや? 私の血では物足りないようですね」
「あ、いえ。そんなことは……!」
イザベラはリリムをずっと観察していたらしい。リリムは食事に集中していて気が付かなかったが、おそらく警戒していたのだろう。
「……マリーは少し特別な子ですので、それで精気の質や量が違うのかもしれません。そこまでは考慮していませんでしたが、マリーの方が良いのであれば、きちんと仲直りをしてください。マリーがいいと言うまで接触は禁止します」
「……まだ、僕をここに置いてくれるんですか……?」
「貴方の罪を許すかどうか、それはマリーが決めることです」
イザベラの言う通りだ。加害者はリリムで、被害者はマリーだった。マリーの気持ちが全てだ。
「ただ、貴方は自分で思っているよりもずいぶん弱っているようですから、帰るならファウヌスのところへ強制送還です。よく考えなさい」
「……はい……」
それから、イザベラは静かに部屋を出て扉を締めた。しばらくすると階下からも扉を閉じる音がかすかに届く。イザベラも尼僧院の宿舎へ戻ったのだろう。
きっとマリーは、まだ泣いている。
マリーの真っ赤な泣き顔を思い出す度に、胸が潰れるんじゃないかと思った。息が苦しい。
子どもが泣くのは好きじゃなかった。ましてや、自分が泣かせるなんて。
──謝って、許してくれるものだろうか。
いや、レイプまがいのことをして許されるなどと甘いことは考えるべきではない。
やはり、明日ちゃんとマリーに謝ってから、ファウヌスのところへ行こう。新婚家庭を邪魔したくなかったけれど、このままマリーの傍にいるよりはマシだ。
ごめんね、マリー。
さっきまでショコラを抱きしめてうれしそうにしていたマリーの笑顔が、今は遠く感じた。
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