10 はじめてのお友だち
サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルの町は、小さいながらも観光地だ。
修道院の周辺には観光客が休憩するレストランやバル、カフェが何軒もあるし、ナビ役の人間もうろついている。
修道院からわずかに離れた町も、黄色や白の漆喰で建てられた建物はどれもこぢんまりとしていて、ヨーロッパののどかな田舎町といった風情で人気があった。
舗装された石畳にテラス用のテーブルとチェアが置いてあって、そこここで観光客が休暇を満喫している。
絵に描いたようなヨーロッパの観光地の光景。
観光シーズン真っ最中の初夏の空気はさわやかで、午後の日差しがにぎやかな町を明るく照らしている。
マリーも、カフェの前に立って観光客にソフトドリンクを売っていた。
「そこのキュートなおねえさま。オレンジジュースはいかがですか? 搾りたてなんですよ」
声をかけたアメリカ人女性の二人組が、マリーを見て相好を崩す。
マリーは白いブラウスと茶色いワンピースという、いつも通りの地味な出で立ちだ。それでも長い髪はつやつやとしていて、夜の瞳は大きくてきらめいている。今日は目元がわずかに腫れているけれど、それでも誰が見たってかわいい。
「あら、すごくかわいい子ね。じゃあふたつ、テイクアウトでちょうだい」
「ありがとうございます! ひとつ2ユーロ、現金払いです」
女性は商品の代金と、チップに1ユーロ余分にマリーに手渡した。
売上をレジに、チップを懐にしまっているマリーに、リリムは距離を取ってそっと声をかける。
「マリー」
「……リリム……」
リリムの姿を見て、マリーの顔から愛想笑いが消えてしまった。その硬い表情に、胸の奥がつきんと痛む。
シスター・イザベラに、マリーは午後からこのカフェで手伝いをしていると聞いて来た。マリーは毎日、ここでちょっとしたお小遣い稼ぎをしているらしい。マリーは要領が良くてひと目を集める容姿をしているので客からの評判が良く、町のひとからも重宝されていると聞いている。
「……なにしに来たんですか」
マリーの声は刺々しい。まだ怒っているのだ。当然だった。
だから、リリムは素直に頭を下げる。
「……昨日は、本当にごめん。怖かったよね」
「そうですよ! すーっごく怖かったです!」
マリーの糾弾は直球で、容赦がない。それでも、無視されないだけマシだと思う。
「……宣誓までしてるのに、こんなに自分をコントロールできないの、はじめてだった。……僕は人間社会で生活するには修業が足りないみたいだから、出直すよ」
「えっ」
マリーは、すごく怒った顔をしていたのに、急に驚いたように目を丸くした。
「……帰っちゃうんですか?」
「僕に帰るところはないよ。しばらくじいちゃんのとこへ行く」
そう言うと、マリーの表情がとたんに気まずそうなものになった。
「えっと……別に、そこまでしなくてもいいと思いますけど……」
「ダメだよ。僕はマリーを傷つけたんだ。こんな存在、小さな子どもの傍に置いておけない」
「でも、リリムすーっごくお腹減ってたんですよね? 昨日、イザベラから聞きました。悪魔はあんまりお腹が減ると、ひとを襲っちゃうことがあるって……」
「うん……だから、ここにいるとマリーやイザベラさまに迷惑かけちゃうよ。まだ自分で体が動かせるうちに、じいちゃんになんとかしてもらう。
……ほんとに、昨日は怖い思いさせて、ごめんね。マリー……」
リリムはもう一度、姿勢を正して頭を下げた。目をつむると、昨日見たマリーの泣き顔がちらついた。胸が痛い。空腹よりよっぽど辛かった。
しばらくして顔を上げると、なぜかマリーが目の前に立っていた。
「……リリム、まだお腹減ってます?」
「…………うん………」
申し訳ないが、昨日汗と血を少し舐めたくらいでは全く足りなかった。子どもの体に変えておいたことが不幸中の幸いだ。多少燃費がマシになる。
そんなことを考えていたら、突然、手を握られた。
「いいですよ。あげます」
そう言って、マリーはリリムの唇に、頬をくっつけてきた。
「!!」
マリーの頬から、ほんのわずかに精気が流れ込んでくる。
やはりイザベラよりも数段濃い味がする。汗とも言えないような気配だけでも、どこかが満ちていく心地がした。もっと欲しい、という空腹から本能が刺激されるけれど、震える腕でなんとかマリーを引き剥がす。
「だ、だめだよ、マリー! マリーは女の子なんだから、軽々しく男に体を触らせちゃいけない!」
「わかってますよ。リリムだけです」
「…………」
「仲直りのキスですよ。子ども同士ですから、そんなに不自然じゃないです。はい、私の精気、食べちゃってください」
マリーはそう言って、さらに頬を寄せてきた。
キスしろ、ということらしい。
思わず、ごくりと喉が鳴った。
「……だ、ダメだよ……悪魔の命を助けるなんて、どうかしてるよ……」
「悪魔じゃなくて、リリムを助けるんですよ。
……だって、お友だちになったんですもん……」
マリーの夜の瞳が、なぜかわずかに濡れている。
「……は、はじめてできたお友だちなのに……このままさよならするのは、ダメです……」
──そうか。この子、学校に行ってないんだっけ。
大人に囲まれて育って、姉も傍から離れてしまって、寂しい中にイザベラが連れてきた、同世代の少年。はじめてできた、外の世界の友だちが自分なのだ。
「……僕、悪魔だよ。悪魔と友だちになって、いいの?」
「いいんですよ。リリムは素直に謝れる善い悪魔ですから」
「悪魔に善い悪魔はいないんだよ。悪い気持ちが固まって受肉したのが悪魔だからね」
「でもリリムは悪いコトしてないじゃないですか」
「……マリーの目の前ではしてなくても、別の場所ではしてる」
「それって人間でも同じですし、悪魔だけじゃないじゃないですか」
そう言えば、出会った時もリリムが悪魔だと知った上で助けに来たんだっけ。
マリーの善悪の判断は、ほかの人間とはちょっと違うらしい。変わった子だな。
「……じゃあ、これからは悪いコトしないようにしなくちゃね。マリーの友だちとして」
「! そうです! それでいいんです! そうしたら、きっとイザベラだってリリムのこと褒めてくれますよ!」
求愛ってそういうものじゃないんだけどな、なんてことを思いながら、リリムは笑った。そんなこと、マリーに教える必要なんてない。
こんなに必死になって引き留めてくれたひと、今までいたかなあ?
「うん……マリー、ありがとう」
リリムは、感謝とともにマリーの頬にそっと口付けた。ちろりと肌を舐めると、やっぱりとろけるように甘かった。花の蜜みたいで、いくらでも舐めていられそう。
もちろん、そんなことはもう絶対にしないけれど。
何度か軽く触れるだけのキスを重ねて、離れる。もう一度マリーを見ると、心配そうにリリムの顔を覗き込んでいた。
「……大丈夫ですか? 昨日みたいに変になったりしてません?」
「うん、平気だよ。精気をくれて、ありがとうね。マリー」
「はい、どういたしまして! もう帰らないですよね? 仲直りですよね?」
リリムは笑って、傍にあったマリーの体をそっと抱きしめた。本当はまだまだお腹が減っていたけれど、我慢する。もう二度とマリーを泣かせたくない。
マリーも笑ってリリムの体に腕を回してきて、ぎゅうっと抱きついてきた。
「でも……マリーと友だちになるのはうれしいけど、普通、友だちとキスはしないよ」
「だってリリムは私がキスしないと生きていけないじゃないですか。お友だちがひもじい思いをしていたら施します。そんなの、神さまの言いつけじゃなくてもそうします」
「……そっか。マリーは本当に、良い子だね」
「んふふー! もっと褒めてくれてもいいんですよ?」
──本当は、こんなので仲直りなんて、しちゃいけないんだろうけれど。
でも、マリーに笑顔が戻って心底ホッとした。今は、それだけでいいかと思う。
お互い笑いあっていたら、周囲から拍手が聞こえた。
……いつの間にか、地元のひとや観光客に囲まれていた。
「仲直りできたの、よかったわねえ!」
「もうケンカしちゃだめだぞー」
事情を知らないはずの通行人からいろいろと声を掛けられてしまった。
死ぬほど恥ずかしい……。
淫魔だが小市民として過ごしてきたリリムは、こういう注目のされ方は苦手だった。顔が良いのでひと目を集めるのは慣れっこだが、こんなほほえましいものを見る目には慣れていない。
マリーはなんだか得意げだ。リリムより注目されることに抵抗がない性格なのだろう。目立ちたがり屋なのかもしれない。
「じゃ、リリムも今日は店番をしましょう! 私のしごとを手伝ってくださいね」
「なんでそうなるの?」
「おこづかい半分こにしてあげますから! あ、おかみさーん! この子、リリムって言うんですけどー!」
マリーは店の方へ飛んでいって、店の女主人と思われる女性にリリムを紹介している。
──とりあえず、今日はファウヌスのところへ帰らなくても良さそうだ。
ほっとしなら、マリーを追いかける。マリーは店の女主人と思しきひとと会話を終えて、こちらを振り返った。
マリーの顔がぴりりと引き締まる。
「マリー、どうしたの?」
マリーの視線は、リリムを通り過ぎていた。どうやら通行人のひとりを視線で追いかけているらしい。
「リリム。
──あれ、悪魔です」
マリー視点としては、とても大好きな姉が出ていった後でことさら寂しい思いをしていて、その中で自分の事情を明かして「良い子」と言ってくれたリリムはかなりお友だち認定度が高いです。
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