11 悪魔の誘惑、もしくは試練
マリーの視線の先には、二十代後半くらいの男が修道院とは逆方向へ歩いていた。
薄い色の金髪に白い肌で、ひょろりとした細身の体に大型のバックパックを背負っている。旅行客であることがひと目でわかった。
だが、悪魔とは。
「……よく見つけたね」
「リリムにもわかりますか」
「マリーに言われて気がついた」
男は、悪魔に憑かれているようだった。
悪魔と言っても、リリムやファウヌスのような受肉した悪魔の数は多くない。一般的な悪魔は人間に取り憑いて善き道を踏み外すように促す悪霊に近しい存在だ。こういう存在は日中あまり表に出てこず、物陰や夢、人間の内側などに隠れているので、悪魔祓いでもひと目で見分けるのは難しい。
「やっぱりマリーは目がいいんだね」
「私の目は特別製ですので!」
「そっか。じゃあしごとに戻ろう」
リリムがマリーの袖を引っ張ると、えっと高い声が上がった。
「ここ別に驚くところじゃないだろ」
「驚きますよ。放っておくんですか?」
「うん。少なくとも、マリーがなにかすべきじゃない」
そう言ったら、マリーのなめらかな頬がぷくっと膨れた。食べ物を詰め込んだリスみたいだ。
「見つけたんですから……」
「前に僕も言ったし、イザベラさまにも言われてるよね? 子どもが危ないことをする必要はない。どうしても気になるなら、イザベラさまに報告しておけばきっとうまくやってくれる」
これに関して、リリムは折れるつもりはない。マリーがむっとした顔のままこちらをにらんでいるが、ダメなものはダメだ。
──昨日、マリーを泣かせたのは本当に堪えた。
女性を泣かせることは多々あれど、こんな子どもを泣かせるなんて二度と御免だ。危ないことをさせるなんて言語道断である。
納得していなさそうなマリーに、リリムはさらに付け加えた。
「それに、別に悪魔に憑かれてるからって、必ず悪さをするわけじゃない」
「そんなわけないじゃないですか。悪魔って、善良なひとを悪の道へ誘惑するんですよね?」
「そうだよ。でも、別に必ず誘惑に負けると決まっているわけでもない」
リリムの説明に、マリーは大きな目を数度またたかせた。
「……どういう意味ですか?」
「またあとで説明してあげる。ほら、ちゃんと働かないとダメなんでしょ? 手伝ってあげるから、しごとのこと教えて?」
「……わかりましたよ……」
マリーがようやく機嫌を持ち直して、しぶしぶしごとの説明をしてくれる。
マリーが手伝っているのは、カフェの前に簡易テントを設けたテイクアウト用ドリンクの売り子だ。売っているのは搾りたてのオレンジジュースとレモネード。子どもが手伝っているのでアルコールはないらしい。クーラーボックスの中に氷と水が仕込んであり、いくつか中身の入ったカップが用意されている。なくなると後ろにあるカフェの店舗から補充を持ってくるようになっていた。
さっそく二人で声掛けを、と思ったが、先ほどのマリーとの仲直り劇でそこら中にひとが集まっていた。マリーとリリムが声を上げるだけで、みんな微笑ましい笑みを浮かべて喜んでジュースを買ってくれる。余計なひと言を添えて。
「一緒にお店のお手伝いなんて、仲良しなのね」
「もうケンカしちゃだめだよ」
「かわいい彼女を怒らせたらダメだぞ、色男!」
……やっぱりちょっと、恥ずかしいな……。
早々に店のオレンジの在庫がなくなって、品切れのタイミングで店舗から店のオーナー夫人がやって来た。リリム的には結婚されている女性は皆、夫人と思っているが、この女性は女将さんといった風情だ。
女将さんは満足そうに笑いながら、リリムとマリーの肩を叩く。
「いつもの倍は売れたわ! 繁忙期の手伝いってだけでありがたいのに、売上まで伸ばしてくれるなんて、さすが修道院からの紹介。神さまに感謝しなくちゃ。マリーちゃん、リリムくん、ありがとうね!」
「とんでもないです。おばさまのジュースがいつもおいしいからですよ」
「お役に立ててなによりです、セニョーラ」
「あははは! リリムくんは本当にかわいくて面白い子だね! そうだ、今日はテラスでチュロスでも食べていきなさいよ。……仲直りのお祝い、ね」
女将さんがウインクをしてお店へ引っ込んでしまったので、リリムとしてはなんともいえない気分になった。マリーは夜の瞳がチュロスへの期待でかがやいている。
「やったー! ケンカしてみるものですね、リリム!」
「…………よかったね、マリー」
マリーとふたりでテラス席の端っこに座って、女将さんが用意してくれたチュロスと炭酸水をいただくことにする。
チュロスにはホットチョコレートが付いているのが当たり前で、通常、このチョコレートは甘くない。ただ、出されたホットチョコレートは十分な甘みが加えられていた。おそらく、女将さんが子ども用に気を利かせてくれたのだろう。
揚げたてのチュロスにたっぷりとチョコレートを浸して、ひとくち頬張る。小麦粉と油、カカオと糖分の贅沢な味が口いっぱいに広がった。精気不足のせいか、いやに食べ物がおいしく感じられる。なんだったらほんの少し、精気まで得られた気がした。
隣に座ったマリーは大きな瞳をきらきらとさせて、早くもふた口目を頬張っている。
「それで、本当に悪魔は放置していてもいいものなんですか?」
口の中のチュロスをうれしそうき飲み込んでから、マリーが尋ねてくる。どうやら、さっきの話の続きが知りたいらしい。
「正確には、退治する必要があるか、すぐにはわからないってコトだよ」
「どういうコトですか?」
「悪魔っていうのは、ひとやどうぶつが抱く良くない感情がもとになってる。そういうのがたくさん大地に漂うと、その土地にとってそれが当たり前になって、『なんとなく嫌なもの』がはっきりと『嫌なもの』として地に定着してカタチになるんだ。僕たち悪魔は、生きるものたちの『負の感情』がカタチになった精霊の至る先の存在なんだよ」
「……悪霊や精霊が進化して悪魔になるんですね」
「そういうこと。悪魔がひとやどうぶつの悪意を糧とするのは、そういう生まれに起因している。僕たち淫魔は……そうだな、好きなひとと気持ちのいいコトをいっぱいしたいなって気持ちの塊って感じ」
マリーに向けて極力オブラートに包んだ表現を心がけた。マリーの白い頬がぱっと薔薇色に染まる。
「え、えっちなコトですね……?! えっちなコトしたい気持ちの塊ってコトですね……!?」
「あー、うん……そうなんだけど……」
やっぱり子どもだ。しかも、ちょっとそういうのに興味があるけど恥ずかしくて茶化しちゃう系の子どもだ。健全ではあるが、大人側は対処に困る。具体的なことを突っ込まれたくないので話を続けることにした。
「……とにかく、悪魔はそういう存在。僕たちは人間の感情というエネルギー、そして少しの体力──これをひっくるめて精気って呼んでるけど──精気を糧にしているから、人間がもっと悪い感情を強く抱くようにいろいろな助言をする。それが、教会の言うところの『悪魔の誘惑』だ」
「イエスさまの『荒野の誘惑』ですね」
「そう。イエスが断食した際に悪魔サタンから食欲、誇り、権力の誘惑を受けたが、神の言葉によって退けた。本当のところは本人に訊いてみないとわからないけど、聖書にはそうあるね。ほかにも、『聖アントニウスの誘惑』の題材は美術史でも多く用いられている。これらは人間に対する試練と考えられてもいるね。
実際、『悪魔の誘惑』って絶対的なものじゃないんだ。悪魔に狙われて会話をしても、誘惑に乗らない人間はたくさんいる。簡単とは言わないけれど、不可能なんてことは全くないんだよ。それを乗り越えれば、『自分って善い人間なんだな』って自信にもなるし、悪いことばかりじゃない」
「……じゃあ、さっきのひとは」
「まだ試練の途中、とも考えられる。悪魔に誘惑されたからって、最初から重大事件の犯人になったりするわけじゃないしね。はじめは友だちに嘘をつくとか、マンガを借りパクするとか、遅刻して謝らないとか、そんなものだったりするんだよ」
「えっ、そんなコトも悪魔の仕業なんですか?!」
「なんでも悪魔のせいにしないでよ? もちろん、最初から堕落していてそういうコトをする人間だっている。そういう人間は悪魔の格好の獲物だ。楽な方に流されやすいってコトだからね。苦労せずにたくさんごはんをくれる相手だ。そして最後には破滅する。
悪魔に破滅させられるのは、最初からその要因を持っている人間が多い。僕たちだって、わざわざ難易度の高い相手を選ぶことは滅多にないんだよ」
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