73 わたしは世界の中心、だった
* *
「ぼくこれからどうしようかなぁ。計画は永久凍結だし、無理矢理研究進めてきたから機関もぼくのこと持て余してたし……暗殺とかされたりするかな?」
イワサキが手配したプライベートジェットの室内で、ダニエルが呑気な声で切り出した。イワサキは思わず眉をひそめる。
「馬鹿馬鹿しい。機関は教会の荒事を取り扱うとは言え、宗教家の集団ですよ。あり得ません」
「……まあ、そうだよね。きみにとっては」
ダニエルは薄く笑ってペットボトルからひと口水を含む。
「? どういう意味ですか」
「べっつにー! 研究はもう続けられないし、教師でもしようかな。イワサキ、なんかツテない?」
「……ないでもありませんが、本当にいいんですか? 貴方の頭脳は、もっと人類の発展に役立てられるはずです」
「わかってないなぁ──使命が終わったんだ。ぼくはもう、抜け殻みたいなものなんだよ」
ダニエルの顔には笑みが浮かんでいたが、瞳はガラス玉のように感情がない。気さくな男であることを知っているイワサキは、男の様子から視線をそらした。
──彼の命を引き留めたことは、間違いだったのではないか。
もしかすると、彼が「命を賭ける」と言ったのは、自分の覚悟を試していただけだったのではないか? 誰の命を犠牲にしても、お前は使命をやり遂げるべきだと、言われていたのではなかったか?
……身近なひとの死に対する罪悪感から、逃げただけなのではないか?
そんな予感から、目を背けたかった。
「……イタリアに、懇意にしている大学があります。宗教学か歴史学か、選んでください」
「生物科学とか医学はないんだ?」
「……貴方にはその資格がありません」
知識や技術の話ではない。
マリエッタたちを造ったダニエルには、倫理問題で再びひとの命に関わる研究を勧めることはできなかった。
ダニエルはらしくもなく、皮肉げに口元を笑みに歪める。
「今さらぼくを非難するの? さすが、善良なシスター・メアリだ」
「わたしも貴方と同罪です。──一緒に地獄へ堕ちてあげますから、安心なさい」
「はいはい」
イワサキとしては決意を込めた言葉だったのだが、ダニエルは笑うだけだった。失礼な男だ。知っていたけれど。
無事に空港に着陸してイタリア土地に降り立つ。
タラップから降りた先に、なぜかイザベラが立っていた。背後にはスーツを着た若い男をともなっている。
イワサキは反射的に満面の笑みを浮かべた。
「シスター・イザベラ! 久しぶりですね!」
声に反応したイザベラは、まっすぐにイワサキを見つめる。年齢を感じさせない清々しい立ち姿で、シスターの礼服も乱れひとつない。銀のまなざしは凛々しく、笑みのない顔は彫刻のように整っている。
近寄って手を取るが、冷たく振り払われた。つれない。でもそこがいい。
「……毎年会議で会っていますが?」
「5分程度じゃないの。貴女が忙しいのはわかっていますけれど、わたしはもう少しゆっくりお話ししたかったんですよ」
「そうですね。実は私も貴女に話がたくさんあったんですよ。でも、いつもいつも邪魔が入る。運のいいことに、貴女の道行を止める事象は事前に排除されていました」
それは、イザベラからははじめて耳にする言葉だった。そして、先ほど悪魔から散々繰り返された言葉でもある。
「しかし、思い返せば『運には抗えない』などと諦めるなど、私らしくありませんでした。今はそのことを少し反省しています。
──貴女、とうとうマリーとリリムに手を出しましたね?」
イザベラの銀のまなざしが、射殺さんばかりの鋭さでイワサキをとらえた。
『グノーシス調査機関』が誇る最強の悪魔祓い。
彼女の前に立った悪魔は、こんな気持ちだたのだろうか。
その覇気に、全身が無意識のうちに恐怖で震えた。
「……どうして? これまでマリエッタさまたちの養育に協力的だったじゃない……?」
「マリエッタとマリーは、大人の都合に振り回された孤児です。その成長を見守ることは大人として、聖職者として当たり前のことです。
『マリエッタ計画』などというアホの所業に協力しようなどという気持ちは1ビットたりともありません」
「……そんな……」
「というか、私の態度でわかりませんでしたか? 本当に? あれだけ苦労して貴女のお金を受け取らないようにしてきたのに?」
続けざまに放たれるイザベラの冷たい声は、イワサキの心臓を冷たく焼き付ける。
──そんなことを、今まで思っていたの? ならどうして、話してくれなかったの?
「まあまあ、イザベラ。イワサキはこういうヤツなんだ。
──周りが見えていない。世界が見えていない。だって自分が世界の中心で、周囲を考える必要なんてなかったんだから」
ダニエルの声はいつも通り軽くて、けれど内容は辛辣だった。
「ダニエル……?」
「ああ、勘違いしないでくれよ。ぼくはずっときみには感謝している。ぼくの研究に出資してくれたし、政治も一手に引き受けてくれていた。だから、ぼくがやったことの結果をなにに使ってくれても構わないと本気で思ってるよ。
結果なんて、所詮試行過程の出涸らしに過ぎないからね」
「……貴方……」
「なるほど。──神を人間の手で生み出そう、なんてバカは貴方が発端でしたか。ダニエル司祭」
イザベラの糾弾を、ダニエルは笑って受け止めた。空っぽのガラスの瞳で。
「うん。イワサキは善良で、世間知らずで……ぼくたちの口車に乗せられただけだよ。だから、おしおきはほどほどにしていてくれないか? ぼくはどうなってもいいから。そこの悪魔に喰わせてもらってもいいよ」
ダニエルが視線を向けた先には、目つきの悪い男が立っていた。イワサキは見たことがない男だ。見た目は東洋人だが、マリエッタやマリーと違って取り立てて目立った特徴のない平凡な姿をしている。
「彼が、悪魔……?」
「ああ、あなたは会ったことがないのでしたっけ。この男は、悪魔サタン。この世全ての悪魔の頂点に立つ男です」
イザベラの言葉に、イワサキは目を数度またたかせてから、黙り込んだ。それしかできなかったのだ。
今、彼女は何と言ったのか?
イワサキが目を丸くしていると、サタンと紹介された男は嫌そうに顔をしかめた。
「なんで俺の名前を出すんだよ。必要ねーだろ」
「貴方なんて名前くらいしか役に立つところないでしょう。たまには私の役に立ってください」
「立ってやっただろうが。スペインからここまで運んで欲しいなんて、突然連絡よこしやがって。ひとを飛行機かなにかと勘違いしてんじゃねーのか? 俺はただの日本の会社員だぞ」
「貴方、まだそんなごっこ遊びをやっているのですか。絶対に向いていませんよ」
「うっせえな! 悪魔だって資本主義社会に馴染まねえといけねえんだよ。ファウヌスばっかりに良い格好させてたまるか!」
「そういうことですか。まぁ、私は別にどうでもいいですけれど」
「ひとを足にしておいてその言い草! お前の方がシスターなんぞ向いてねえよ!」
「……イザベラ。シスター・イザベラ。貴方──悪魔に寝返っていたの?」
イザベラは20年前に、悪魔サタン討伐に出向いた過去がある。サタンを消滅させることはできなかったが、生きて帰ってきたイザベラは今世紀最強の悪魔祓いと言われるに至った。
「……馴れ合っていたというの?」
イワサキの震える声に、イザベラは整った顔を笑みに歪めた。その表情は、神に仕える女とは思えないほど、邪悪に見える。
「……いいえ、イワサキ。私は神の女。この身、この命は神に捧げました。その誓いに嘘はありません」
「……なら」
「ただ、死んだ後のことは、その限りではありません」
「……おい、喋りすぎだぞ」
サタンの苦々しい表情に、一体なにが隠されているのかイワサキにはわからない。ただ、ふたりが親密な関係であることはイワサキにも理解できた。
「いいのです。今日はそのために貴方を連れてきたんですから。
昔からこの女は私に対して過剰な期待や憧れを抱いていたようですからね。別にどんな妄想をしてもらっても、現実に持ち込まないのであれば放っておく主義なのですが──今回の件のおしおきですよ、イワサキ。私が悪魔とつるむ不良シスターだったこと、貴女の願望と信頼を打ち砕く女だったことを思い知りなさい。無邪気に振る舞って許される年齢でもあるまいし、現実を見てこれまでの己が所業を振り返るといいのです。平たく言うと、こうですね。
──ざまあみなさい」
心底楽しそうに声を弾ませて、イザベラは恐ろしいほど美しく笑んだ。それから、全て言い終えたらしくサタンを伴って空港へと立ち去る。その背筋の伸びた堂々とした歩き姿がやはり清廉として見えて、イワサキの瞳に涙がにじんだ。
「……イザベラ……わたしに清貧の心と、強く生きることを説いてくれた、この世で最も清らかなシスター……」
彼女はイワサキの憧れであり、生きる導だった。神に仕える女というのは、突き詰めるとイザベラになるのだと思っていた。
その、彼女に。──こんなにも、嫌われていたなんて。
「……そんなイザベラの姿も、嘘ではないけれどね。ぼくからすると、彼女は『最強』と謳われるに足る豪傑だよ。清らかなだけの強さじゃない、泥をすすって生きてきた人間の強さだ。きみには一生かけても理解できないだろうけれどね」
ダニエルも、どこか突き放したように一歩引いて話している。けれど、イザベラと違って糾弾する色はなかった。彼は一応、イワサキを支えようと思ってこの場に残ってくれているのだろう。世間知らずの同僚が、2割の運を失ったことでで凍えそうな社会の荒波に放り出されるのを予見していたのかもしれない。
「……イワサキ。きみはこれまで、自分が望んだことだけを信じて生きれば良かったし、それを実現する運を持っていた。でも、これからそれは、ほんの少しうまくいかなくなる。シスター・イザベラのいいところしか見ず、その面にしか触れないことさえ意識せずとも思いのままだったけれど、これからはそうじゃない面とも向き合わなきゃ」
「……イザベラ……ダニエル……」
自分はどれだけ、現実を知らずに生きてきたのだろう。
それをこれから思い知るのが、恐ろしい。
これが悪魔の誘惑に乗った人間の末路であるなら、やはり淫魔リリムは、どれだけ善良に見えても悪魔だったのだと思う。
そして、悪魔さえ批難する自分の所業は、どれほど邪悪だったのだろう。
今、イワサキは本当の意味ではじめて己の罪を自覚しはじめ、恐怖と怖れに体を震わせた。
イザベラとサタンの話は短編とかで書きたかったですね。
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