71 命の重さ
イワサキの冷ややかな視線に、ダニエルはあからさまに怯えた表情を浮かべた。それでも、ゆっくりとイワサキに近付いていく。
「……だめだ。今回は手を引くんだ」
「今回は? 冗談でしょう。すでにこちらの意向について、マリーさまは拒否なされたのです。この先も素直に計画にご参加いただくことはないでしょう。なら、今力付くで受胎施術をしてしまった方が、計画が数年早まります」
あまりの言い草に、リリムの頭に血が上った。こんなに腹が立ったのは受肉してはじめてかもしれない。
思わず腕の中のマリーを抱きしめると、マリーもリリムの服を握ってきた。
……震えてる。
当然だ。マリーはこれまでずっと、モノ扱いされている。
くそ! なんで僕はこんなになんにもできないんだろう!
憤りのままイワサキたちをにらみつけることしかできなかった。
ダニエルはこちらをちらりと見て息を吐き出し、顔を上げる。眼鏡の奥の頼りない瞳は、まっすぐにイワサキを見据えていた。
「きみの願いは知っている。尊いことだとも思う。ただ、それはきみの願いだ。ぼくの願いは別にある。僕はマリアさまとイエスさまの遺伝子解析と、完璧なクローンをつくることが自分の生まれてきた意味だと思ってきた。
──淫魔ファウヌスに、『マリエッタ計画』のデータを奪われた。でも、きみを説得できればデータは保存してくれると約束してくれた。だから、ぼくはぼくの使命のために、きみを止める」
ダニエルの言葉と同時に、出入り口からファウヌスとマリエッタが入ってきた。真っ先にリリムとマリーを見つけて駆け寄ってくる。
「ふたりとも、大丈夫か⁈」
「マリー、怪我はありませんか⁉︎」
「おねえさま、おにいさま! 私、大丈夫です!」
マリーが声を上げて、腕の中で涙ぐんでいる。リリムもほっとして、マリーを抱きしめていた腕から力を抜いた。
よかった。これでもう大丈夫だ。
リリムとマリーの無事を確認したファウヌスは、イワサキの方を一瞥してからいつも通りの落ち着いた美声で修道士たちに語りかける。
「やあ、マリア・イワサキ。はじめまして。俺はファウヌス。お前は俺のことをよく知っているだろうから、詳しい自己紹介は省こう。俺は悪魔でサーバーエンジニアだ。この施設に保管されていたサーバーをハックして、『マリエッタ計画』に関するデータ権限を書き換えた。データを完全消去されたくなければ、二度とリリムとマリーに手を出すな」
イワサキは、なにか言おうとして、無言のままダニエルをにらみ付ける。ダニエルは首を左右に振った。
「……サーバーは完全にネットワークから独立したものだったんじゃないの?」
「そうだよ。それでも、こんな風に直接敷地内に侵入されて、サーバーごといじられたらどうにもならない」
「でも、こんな短時間で破られるような
セキュリティじゃなかったはず──」
「──彼は、最も古い悪魔だから」
ダニエルの声が上擦った。彼は危機に陥っているはずなのに、なぜか興奮しているようにさえ見える。
「まだアダムとイヴが楽園にいたころ、地上にはただ、森と動物たちだけがいた。その大地に『智慧あるもの』として存在していた精霊、森の大賢者。それが神の罰によって最も罪深く力なき悪魔に貶されたのが、淫魔ファウヌスだ。でも、ぼくもこんなことが可能なんて思いもしなかった!
──サーバー内のデータを、森に見立てて自由に操作できるなんてね!」
イワサキの眉が上がった。だが、それだけだ。おそらく、彼女はデータ設計についても魔術についても門外漢なので、いまいち話についていけないのだろう。それを察したダニエルが、うーんと唸って別の表現を探した。
「魔術的概念の話で、木や森を大地の経た時間の表出と捉えた時に、それらを情報の集積と再解釈することで賢者ファウヌスの権能の範囲内に……あっ、コレもダメ? えっと、つまり──彼が物理サーバーに接触すれば、どんな強固なハードもソフトも設計思想も意味はない。彼は直接データに干渉できる」
「うわ。なにそれチート過ぎません?」
隣のマリーがものすごく嫌そうな顔をした。リリムは魔術的な解釈はわかるが、実はデータの扱いについては大してぴんときていない。どうやらデータを扱うひとびとは心底嫌がることらしい。
さすがじいちゃんだ。悪魔の鑑。
「……俺としてはこんなデータ、絶対ない方がいいと思ってるから今すぐ消去してもいいんだ。ただ、このダニエルくんがあんまり必死で止めようとするから、せっかくだから取り引きに使わせてもらうことにした」
ファウヌスの赤い瞳が、イワサキを見つめる。その視線に感情はなく、普段のファウヌスとは別人みたいに思えた。
「どこかにコピーはあるんだろうが、少なくとも最新データは俺が持っているものだろう。マリエッタたちの遺伝子データは復元できるのかもしれないが──着手中の『神の子』の遺伝子情報とクローンデータはどうなんだろうな? それこそが、お前たちの最終目的なんだろう? これを完全消去されれば、本当にお前たちのやっていることには意味がなくなるぞ」
「……ふん。どうせ、今わたしが引いたからと言っても、データを解放するわけがないわ。さっき悪魔のやり口は淫魔リリムから勉強させていただきましたからね。消去しないだけで、実際は貴方の手中にあるまま──そんなところなんでしょう?」
「そうだよ」
答えたのは、ダニエルだった。ダニエルは、入室した時と違って怯えもない力強い視線でイワサキを見据える。
「データはぼくたちのもとには戻ってこない。消去されないだけで、データ権限はファウヌスさんのままだ。あれだけお金をかけたサーバールームはデカい箱が何個も転がっているだけのガラクタ部屋になるってわけ。
……でも、それでいいんだ。ぼくはマリアさまと『神の肉体』の遺伝子を読み解き、再びこの世に産み出した。そのデータさえ残ればいい。それが、ぼくが罪だと知りながら信仰と人生をかけた使命だ。このことについて、ぼくは命を賭けられる。これに交渉の余地はない。イワサキが自分の望みを貫くのと同じように、ぼくにも貫きたい望みがある。
──ぼくの命をかけるよ、イワサキ。きみがここで引かないのなら、ぼくはここで自死する。ぼくが死ねば、『マリエッタ計画』は継続も再現もできない。きみのお金や運では手に入れられないものだってあるんだよ。──ぼくみたいな天才とかね」
ダニエルは不器用にウインクして見せたが、手足は小刻みに震えている。キリスト教、そしてユダヤ教で自死は重罪だ。命は神から与えられたものであり、人が勝手に終わらせることは神の意思への反逆とされ、地獄に堕ちて永劫救われることはない。
「……ダニエル……」
「さあ、どうする? 俺は悪魔だ。リリムとマリー、それにマリエッタの安全がかかっているなら、人間ひとりの命の犠牲なんて気にしないぞ」
ファウヌスの言葉に、その隣にいたマリエッタが眉を下げた。本当なら、ファウヌスが人間にこんなことを言うところなんて見たくないのだろう。
イワサキは、口をつぐんでただダニエルとファウヌスをにらみ付けている。ここから挽回できる方法を必死に探しているのだろう。
彼女だって、人生を賭けた計画だったはずだ。
人類の精神的救済。その志は人間の倫理観として間違っているわけではない。だからイワサキはこれまでも非人道的な計画である自覚がありながら迷わず突き進めたのだ。
だが、身近な人間の命よりも自分の計画が重要だと思うなら、それは独善に過ぎる。
マリーのような、用途の決まった命──くそったれが!──ならいざ知らず、自分の協力者の命まで自分の望みのために消費するなら、その志は単なる個人の野望でしかない。
きっと、いい悪魔の餌になれる。
イワサキは唇を噛み締めて──そうして、ついに長い溜息を吐き出した。
「……わたしの、負けのようですね……」
そう言って、スマートフォンをタップする。リリムとマリーの前に立っていた人型戦車のカメラレンズが、静かに光を失っていった。
あと5話となります。どうぞ最後までお付き合いください。
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