07 孤児の館
尼僧院を出て、庭園側の通路をマリーを先頭にして歩く。どうやら孤児院は庭園の奥にあるらしかった。
今度はリリムも整えられた庭園と澄んだ初夏の空を眺めながら歩く。
エスコリアル修道院は16世紀の建築物で、スペイン黄金期に君臨したフィリペ二世の時代、わざわざイベリア半島中央部のグアダラーマ山脈のほとりに建築した王墓である。建築当時リリムはマドリードにいたし、ファウヌスと違って聖なる場所を観光する趣味はなかったので、ここを訪れるのはこれがはじめてだ。
いまだ残る中世ヨーロッパの匂いに、実際にその時代を生きた者としてなかなか懐かしく感じられた。
さて。
「……マリーはさっきからなにに怒ってるの?」
イザベラの執務室から出て以降、マリーはひとことも口を開いていない。黙ってリリムの前を歩いている。それでもイライラしている雰囲気はなんとなく伝わってきた。
「……なんで修道院に悪魔なんか置いておくんでしょうか。イザベラの考えてること、意味わかりません」
「悪魔にも慈悲を示す、心の広い素晴らしい女性だってことだね」
「そうですけど! イザベラは素敵な女性ですけど! そうじゃないんです!」
振り返って白い頬を膨らませるマリーは、癇癪を起こした子どもそのものだ。
「なんでこんな悪魔なんかを受け入れるんだか……イザベラだっていつもは『悪魔に慈悲は不要です』って言ってるのに」
聖職者ならそういう考えでいて当然だろう。
というか、実際のところリリムにもなぜ受け入れてくれたのかはわからない。単純に、リリムの提案は都合が良かったから、という可能性もないではないが、リリムは悪魔なので普通に考えると修道院へ迎えるにはリスクが大きい。それともファウヌスがお人好しで人間好きの悪魔だから、リリムも同じようなものだと思われたか。そこらの悪魔よりはお行儀はいいつもりだが、あそこまで人間好きというわけでもない。自分の悪魔評としては少しひっかかる。
まあ、人間の思惑を悪魔が考えたところで仕方がないか。
「……僕があの条件を全部飲むとは思わなかったんじゃない? どう考えても僕の方にメリットがないし」
「じゃあなんで飲んだんですか」
「それだけイザベラさまが素敵な方だってコトだよ!」
そう──イザベラのように姿も魂も高潔なまま、しかも純潔を保って齢を重ねた女性など、本当に数世紀ぶりに出会った。リリムは女性の好みにうるさい自覚があるので、こういった機会は是が非でもものにしたいのである。
マリーはまた頬を丸く膨らませた。
「イザベラは素敵ですけど、悪魔の誘惑には乗りませんから! っていうか、誘惑したらすぐに修道院から追い出すんですからね!」
「そこは淫魔としての腕の見せどころだね。……マリーはイザベラさまが誘惑されたのが気に食わなくて怒ってたの?」
「そうです! ただでさえファウヌスおにいさまがおねえさまを攫っていったばかりなのに!」
──ああ、そういうことか。
身内に絡むのが悪魔ばかりで、しかもひとり置いていかれてさみしい思いまでしている。警戒していて当たり前だった。悪いことをしたな。
「大丈夫。イザベラさまと修道院を出ていくことになっても、一緒にマリーも連れて行ってあげるから。これならさみしくないでしょ?」
「そういうコトじゃないですー! イザベラは悪魔なんかになびいたりしないんですから!」
「イザベラさまのことはイザベラさまにしかわからないでしょ」
「イザベラはああ見えて子煩悩ですからね。私がリリムのことヤダって言ったら、貴方は明日フランスへとんぼ返りです!」
うーん、ムカつくガキだな。
だが、こういう子どもの扱い方はリリムも心得ていた。
「……そんなコト僕に言っていいのかな? 後で後悔するかも」
「なんです? 私、悪魔なんかちーっとも怖くないですからね!」
「そう? せっかくこの前助けてくれたお礼にあのお店のショコラを持って来たんだけど、悪魔からのプレゼントなんかいらないかな?」
「えっ」
マリーの夜の瞳が大きくきらめく。あからさまに動揺していた。
「あのお店っていうのは……」
「マリーが義姉ちゃんにプレゼントしようとしたショコラだよ。ここに来る前に買ってきたんだ」
リリムは手荷物のボストンバッグから、大きめの箱を取り出した。深いブラウンの包装紙に淡いピンクのサテンリボンがかけられていて、ひと目で高価な品だとわかる。その箱をマリーの目の前でかざしてやると、夜の瞳が期待にきらきらとかがやいた。
「それで、マリーは僕が気に入らなくて帰ってほしいんだっけ? じゃあこのショコラも持って帰っちゃお」
「あうぅ……」
マリーの情けない声に、思わず吹き出してしまう。女の子をいじめて愉しむ趣味はないけれど、意地悪を言われた仕返しくらいは許されたい。
「うう……ゆ、誘惑にあたるのでは……?」
「どうかな? 僕は別になにも要求してないけれど。というか、コレ、本当はお礼のつもりだったしね」
リリムがそう言うと、マリーはすっかりしょげて、申し訳なさそうにうつむいてしまう。
「うぅ……いっぱい嫌なコト言って、ごめんなさい……」
「許してあげるから、もうフランスに帰れなんて言わないでね?」
リリムが笑うと、マリーは何度も首を縦に振った。そんなにショコラが好きなのかぁ。
大人しくなったマリーに箱を渡すと、まるで宝石みたいに大事に抱えた。一気にごきげんになる。
「えへへ。リリム、ありがとうございます!」
「こちらこそ、あの時は助けてくれてありがと」
「どういたしまして! ……あ、見えてきましたよ、あそこが私たちの過ごす孤児院です」
いつの間にか修道院から離れて別の区画に入っていたらしい。庭園の奥にある林を抜けると、こぢんまりとした屋敷が建っていた。
黄味がかった煉瓦と白漆喰でつくられた壁、同じく漆喰づくりの装飾されたアーチ、屋根を青く見せているのは瓦屋根か。14世紀にスペインで流行したアルハンブラ宮殿のイスラム建築様式を取り入れているのだろう。
ただ、広大なエスコリアル修道院と違って、民家としてもさほど広くはない。価値のある建物だろうというのはわかるが、かなり素朴な佇まいだ。おそらく、かつての王族の別荘か保養所だろう。
「ここが私たちのお家です。かわいいでしょ?」
マリーに案内されて、まずはエントランスホールからリビングに入る。白い壁紙で囲まれていて、使い古されたソファとオーク材のローテーブルが置かれたこじんまりとした空間だった。奥には小さなキッチンが設けられていて、ほかにも書斎やバスルームが設けられている。
リビングを通り抜けて、階段で二階に上がる。ぎしぎしと音のなる木製の廊下をさらに奥へと進んで、奥から二番目の部屋の前でマリーの足が止まった。
「ここがリリムの部屋です」
マリーがエメラルド色をした木造扉を開けて、室内へ促される。
室内も、質素のひとことだ。
真っ白な壁紙に囲まれて、ベッドと書き物をするための小さなテーブルと椅子、備え付けの小さなクローゼットしかなかった。カプセルホテルに毛が生えたような設備と言えばわかりやすいだろうか。
けれど天井が高く、イスラム建築技法による木組みだけでつくった立体天井装飾がしっかりと残されていた。清掃も行き届いていて、ミニマルなデザインホテルのようにも思える。
なにより、アーチ状の大きな窓からはたっぷりと日光が入ってきた。陽の光が生み出す陰影に、人間なら歓声を上げただろう。
リリムは清潔にされたベッドの上に腰掛けて、マリーに視線を向けた。
「それで、ここが孤児院ってことは、僕たちのほかにも子どもがいるのかな?」
「いませんよ」
マリーもリリムの隣に腰掛けて、平然とした様子で質問に応えた。
「ここはもともと、私とマリエッタおねえさまのために用意された場所です。孤児院という名前にはなっていますが、公の孤児院ではありませんし、私とおねえさまの存在そのものが、あまり公にはできないものです」
リリムは眉根を寄せた。
この姉妹の事情は、ファウヌスからそれとなく知らされていた。けれど、正確な情報は得たことがない。
「……言いたくないなら言わなくていいよ。でも一応、マリーの事情を説明してもらえる?」
「構いませんよ。ええっと、どこから説明しましょうか。
私とおねえさまが、聖母マリアのクローンだという話は聞いていますか?」
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