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【完結】淫魔リリムと悪魔祓いマリーは、善悪の境界線でステップを踊る。  作者: 芝村あおい
第一章 エスコリアル・はじめてのケンカ編

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06 エスコリアル修道院

 

 淫魔リリムは、スペインのサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院にやって来ていた。


 エスコリアル修道院はマドリードから電車で一時間ほどの距離にある世界最大のルネッサンス様式の建物で、修道院としてはもちろん聖堂、王宮、霊廟、図書館、博物館、大学、病院などとしても使われている。現在は世界遺産に登録されていて、世界中から観光客がやってくる観光名所だ。


 シスター・イザベラがいるのは、この修道院の最奥にある尼僧院だと言う。尼僧院のすぐ近くには王領地である広大なフライレス庭園があり、エスコリアルの町を訪れたなら一度は目にしておきたい観光名所だ。通路から観光客がそこここに見える。

 観光客たちを横目に庭園を通り過ぎ、リリムは日の当たらないレンガ造りの古い建築物の前に立った。ひときわ質素なつくりの木製扉だ。そこが尼僧院の入口だと、メモには書いてある。ちなみにメモを書いたのはマリエッタ(義姉)なので、間違いはないはずだ。


「……本当に来たんですか?」


 背後から声をかけられたので振り返る。

 すぐに目に飛び込んできたのは、黒く長い髪、夜の瞳、整った顔立ち。

 地味な茶色のワンピースを着た見覚えのある少女が、大きな目を丸くしてこちらを見ていた。


「やあ、マリー。久しぶり。今日もかわいいね」

「当たり前です。私はマリエッタおねえさまにそっくりですからね! おねえさま以外の誰よりもかわいいです」


 あっ、この子そういう子なんだな。

 たしかに長生きなリリムも滅多にお目にかからないほどの美少女なので、その自認はあながち間違いでもない。


「……たしかにマリーはかわいいけれど、僕だって負けてないでしょ。どう? この姿」


 リリムは今、10歳程度の少年の見た目をしていた。

 蜂蜜色の金の髪、アイスブルーの瞳、甘く整ったやさしげな風貌はそのままに、体は幼く、青いシャツにブレザーを羽織って、短いパンツにハイソックスを身に着けている。荷物は少し大きめのボストンバッグをひとつ。どこからどう見ても良家の子女だ。


「シスター・イザベラのご要望通りに整えてきた。マリーと同じ年齢の見た目になっても、僕は美少年だろう? きっとイザベラさまの母性本能をくすぐるに違いない」

「ふふーん! いくらリリムがかわいくても、イザベラはそんなの塵芥ほども興味ありませんから! 残念でしたー!」


 マリーの煽るようなセリフも、今のリリムには負け惜しみにしか聞こえない。この姿でも女性から好かれる自信がある。


「僕をどう思われるかはイザベラさま御本人に判断してもらわないとね。それで、イザベラさまはどちらにいらっしゃるんだ? ご挨拶したい」

「誰が悪魔なんかを招き入れると思うんですか」

「イザベラさまは『条件を受け入れられるならいつでもいらっしゃい』とおっしゃったんだぞ。僕はイザベラさまの条件を飲んでここまで来た。マリーは正式に訪ねてきた客人を追い返すの? 随分失礼だね。イザベラさまは接客の心得をまだ教えてないの?」


 散々に言ってやると、マリーの白い顔が赤く染まって、ぷいと横を向いた。ひとりで尼僧院への扉を開ける。それから、可憐な声がそっけなく言った。


「……淫魔リリム。こちらへどうぞ」


 


 尼僧院は歴史を感じる石造りの外観そのままの印象を保って、中はリフォームされていた。ただし世界遺産として展示されているエスコリアル修道院の豪華絢爛な壁画や装飾品とは打って変わって、こちらは質素そのものだ。装飾品は花瓶に生けられた小さなバラ程度で、板張りの床はていねいに磨かれているが、それだけだった。ずいぶん簡素に暮らしているらしい。

 さほど広くないのか、奥まった部屋にはすぐにたどり着いて、マリーが木造の扉をノックする。


「シスター・イザベラ。淫魔リリムが来ました」

「……あらそう。お入りなさい」


 静かな声が届いて、マリーが扉を開ける。

 部屋の中に案内されると、修道服を身に着けたシスター・イザベラが執務机から立ち上がっているところだった。


「本当に来たのですね。それに、ずいぶんかわいらしくなりました」

「ええ。貴方の(なさけ)を乞うためなら、どんな無茶にも従いますとも」


 にこりとほほえみかけたが、イザベラは微笑を動かさずにリリムへ近寄る。目線を合わせるために膝を折った。


「……こんな中年の精気を乞うなんて、貴方も淫魔ファウヌスの縁者ですね。へんな子」

「ファウヌスほど変人じゃありません。僕の好みが年上だというだけです。とくに、貴女のような美しい女性は、齢を重ねるほどにかがやきが増していくようです」


 イザベラの手を取って、指先に口付ける。イザベラがため息を吐き出した。


「まあ、個人の趣味趣向をとやかく言うつもりはありません。……ですが、私はそろそろ体にガタがくる頃合いでして。貴方に精気を分け与えると、普段の生活に支障を来たしてしまいます」


 精気というのは、感情を含んだ体力だ。悪魔は通常、血や汗、唾液、そして精液を通じて摂取する。ご年配の女性から吸い上げるのなら加減が必要だった。


 リリムがこれまで相手にしてきたのは、富豪の女性ばかりだ。特別あくせく働く必要がなく、リリムに精気を分け与えても日常生活に影響がないことで成立していた。

 ファウヌスからも、「人間と悪魔は共存しているんだ。だから精気を吸うにも、相手の健康を慮る必要がある」と言われている。一理あるので、二千年間、その教え通りに過ごしていた。イザベラが体力を心配するのなら、配慮は当然するべきだ。


「でも……せっかくここまで来たのに、僕に帰れとおっしゃるんですか?」

「いくら冗談半分だったとは言え、律儀に約束を守ってわざわざ来た方をそのまま帰すのは失礼でしょう。

 ですから、貴方の誠意に免じて、特別にこの修道院に滞在する許可を与えましょう」


 イザベラの返答は思いもかけず色良いもので、リリムは思わず飛び上がった。扉の辺りに立っていたマリーが嫌そうに顔を歪める。


「よかった! ありがとうございます! ……でも、それなら僕は精気をどこから得たらいいんでしょう? 正直、お金よりも食事のほうが悪魔(僕たち)には重要でして」


「マリー。貴女が分けてあげなさい」


 突然話を振られたマリーが目を丸くした。


「ええ? どうして私が悪魔に」

「私の代打です。今のところ、マリーは淫魔リリムの好みから大幅に外れています。であれば、誘惑しようなんて変な気を起こすこともないでしょう。それに、マリーはもちろん処女です。淫魔にとって処女の精気は極上だと聞いています。定期的な食事としては悪くないのでは?」


 うっすらと笑みを浮かべたイザベラの視線と、ふざけんな帰れ! と訴えるマリーの視線が同時に突き刺さる。


 リリムは──迷った。

 ここまで来るほどにはイザベラを気に入っているが、せっかく修道院に滞在しても彼女の精気がもらえないのでは旨みが半減する。それに、イザベラの言う通り子どもはリリムのシュミではない。

 ただ、今からフランスに帰ったところで、いちから新しい女性(宿主)を探すことになる。

 先日まで世話になっていた女性は、最期を見送ったばかりだ。普段ならそういう時はファウヌスの家に転がり込むのだが、ファウヌスは新婚生活を謳歌している真っ最中。リリムを邪険にするようなひとたちではないが、こっちがいたたまれないほどのいちゃいちゃを見せつけてくるだろう。普通に嫌だった。

 つまり、今のリリムには帰るあてがない。


「…………」


 もう一度マリーを見る。必死で、断れ! と顔で主張していた。

 マリエッタそっくりの、外見はとびきりの美少女。ひと目見た時から、きらきらとかがやく妖精みたいだと思った。将来だって、きっとマリエッタのような美しい女性になるのだろう。ゆくゆくはイザベラのような上品な婦人になるかもしれない。


 なにより──普通に、お腹減った。


「……わかりました」


 イザベラはうなずいて、マリーは唇をへの字に曲げてすごい形相でにらみ付けてきた。ごめんってば。


「では、修道院に滞在するにあたって、私との約束を守るという誓いを立ててください」

「……あいにく、神には誓えません。それは僕たちが自分自身の存在を否定することになる」

「なら貴方の魂に」


 リリムはほほえみを浮かべて、胸に手を当てた。魔力が自分の内側でかたまりになるのを感じる。


「『淫魔リリムは、シスター・イザベラとの間で以下の約束を違えない。

 修道院に滞在する期間、淫蕩の罪をそそのかさないこと。自ら淫蕩の罪を重ねないこと。

 これを破れば、我が身は我が力によって業火に焼かれるであろう』」


 力が、リリムの内側──魂──に焼き付く。胸の辺りに魔力の熱を感じた。

 悪魔の宣誓だ。

 悪魔にとって宣誓は、本来なんの意味もない。法や秩序を乱すことこそが悪魔の生業だからだ。

 ただし、守られないルールを破ることに禁忌性は低い。禁忌を破ってこそ、罪悪感、そして、それを塗り替えるほどの快楽が感じられる。

 だからこそ悪魔は約束を重視する。宣誓まで行うことで、より禁忌が増すようにするのだ。だが悪魔なので、簡単にルールを捻じ曲げてしまうことも想定される。それで、あらかじめ自分の肉体や魂が損傷するように枷を用意するのだ。

 それが、悪魔にとっての宣誓。宣誓によって、悪魔の誓いは誰に対しても守るべき誓約として自身に刻まれる。


「……これでいいですか?」

「ええ。私も、口約束ではありますが約束しましょう。貴方を飢えさせるようなこと、殺すようなことはしません。……貴方が、誓約を守る限りは」

「それはどうも」


 イザベラもリリムも、淡くほほえみを浮かべた。

 まったく、悪い修道女だ。悪魔に宣誓までさせておいて、自分は口約束だけなんて。それでも、今のリリムは駄々を捏ねて粘れるほど余裕がない。腹ペコだった。淫魔としてのプライドだけで、涼しい顔で腹が鳴らないようにしている。


「マリー、リリムを館へ連れて行って。その後は、彼とお勉強をなさい」

「……はい。わかりました、シスター・イザベラ」


 マリーは大人しく頭を下げた。


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