66 貴方が大好きな私
リリムの言葉に、マリーは大きな瞳をまたたかせた。
予想もしていなかった、みたいに。
「……え?」
「それにね、お金も出してくれるんだって。だから、マリーが子どもを生んだ後は学校に行ってもいいし、行かなくても毎日遊んで暮らせるよ。
もちろん、僕も一緒だ。なんならマリエッタ義姉ちゃんやじいちゃん、イザベラさまと一緒に暮らすことだってできるよ。今までみたいに日陰の場所にいなくていい。もう誰もマリーたちを狙ってこない。本当に、毎日自由に、楽しく暮らせるよ」
「……イエスさまの、クローン……」
「そう。ほかの男の種とか言われたら僕だってあのお姉さんをぶち殺してたけど、胚は事前に用意されるらしいから、代理出産ってことだね。そんなんで『処女受胎』なんて笑っちゃうけど、僕としてはそう悪い条件でもないと思う。なにせ、マリーがこれから無事に過ごせて、お金にも苦労しないなんて、なかなか真っ当な手段では実現できないからね」
リリムの言葉に、マリーは驚くほどおとなしく耳を傾けている。夜の瞳は、静かにリリムを見つめるだけだ。
「……赤ちゃんは、産まれた後どうなるんですか……?」
マリーの質問に応えたのは、イワサキだ。
「御子さまは、マリーさまと同様にシスター・イザベラに養育を依頼する予定です。……イザベラはマリーさま、マリエッタさまともども、素晴らしい女性に育ててくれましたから。彼女こそ現代の聖女です。彼女なら、必ずひとびとを導く希望の御子として育ててくれるでしょう」
「…………」
マリーはイワサキの応えを、どこかぼんやりとした様子で聞いていた。それから、もう一度リリムを見る。
「……リリムは? リリムは、それがいいって思うんですか?」
その声は、どこか心細そうに聞こえた。珍しい。
でも答えは教えてあげない。
これでも教師役だ。大事なことは、ずっと繰り返し伝えてきたから。
「僕の意見は関係ないよ。決めるのはマリーだ。いつも言ってるでしょ。
──どんな悪魔の誘惑でも、決めるのは人間で、責任を取るのも人間だ」
リリムの言葉に、マリーは瞳を細めてにっこりと笑った。力強くうなずく。
「そうですね。
──なら、お断り一択です!」
マリーの拒絶に、リリムも笑った。やっぱりマリーはこういう自信満々の表情が一番似合う。泣き顔は、見ているこちらの胸が痛くなってしまうから。
「さっきおにいさまにも念を押されました。リリムが大好きな私は、誰かのために自己犠牲するような高潔な女の子じゃありません。
おいしいもの食べて、お散歩して、ネットで動画見て、コミックを読んで楽しく過ごしたいっていう俗世の欲望まみれで、身近なひとがだーい好きなだけの超かわいい女の子です!
だから、私は私のことを大事に思っているひとたちのために、自分の将来を犠牲になんかしません。私はいつか学校に行ってお友だちをいっぱいつくって、大好きなひととの子どもを産みます。もしかしたら子どもはできないかもしれないですけど、それでもいいです。私の価値は家族の有無で決まったりしません。
私と、私の大好きなひとたちは、私がマリーであるだけで愛してくれますからね!」
「……ふふ。マリー、百点じゃ足りないな。一万点あげよう」
「んふふー! 当然です!」
マリーが誇らしげに胸を張る。なんだか見ているこちらまで誇らしく感じてしまった。
そんなふたりを、背後から鋭い視線が突き刺してくる。
「……淫魔リリム。なにを和んでいるの。マリーさまに説得を」
「説得は失敗しちゃったみたいだよ」
「……なにを……」
「契約内容は『説得する』だけだ。『説得』をした上で『マリーに要求を受託させる』ことは含まれていない」
「……なるほど。それが悪魔のやり方ですか……」
イワサキの冷ややかなまなざしがリリムに降り注ぐ。口角が上がるのを自分でも抑えきれない。
「あはは! そうだよ! お前は最初から僕のこと悪魔だって知ってたじゃないか! 悪魔との契約がどういうものか知ってたでしょ? どうしたって人間は悪魔との契約に負けるんだ!
どうしてだかわかる? 人間は『自分の都合の良いように考える』って脳の仕組みから逃れられないからだよ。希望的観測とも言うね。これは人間が厳しい環境下でも生きながらえるための進化の過程で組み込まれた本能的なものだ。知性や理性で回避できるようなものじゃない。
さて、イワサキ。僕の側は契約を履行した。お前も契約を履行しろ」
「おいたが過ぎるわよ、淫魔リリム。ちゃんと約束を守りなさい。契約は言葉だけでなく、互いがどう言う意味合いで締結したかも考慮されるわ」
「それは真っ当な契約の話だろう? ──悪魔との契約が真っ当なわけがないじゃないか!」
また高い声で笑うと、イワサキの瞳がさらに冷たくなっていく。ダニエルがひっそりと部屋から出ていくのを視界の端で確認した。
マリーがリリムのシャツを小さく引っ張る。
「……リリム。なんかヤな予感がします。あんまり挑発せずに帰りましょう」
「マリーさま。大変失礼ではありますが、この悪魔に今帰られるのは困ります。貴女がたを支援するのは構いませんが──上限なしに、という言葉を加えたからには、こちらの要求は通していただきます」
イワサキがスマートフォンの画面をタップする。天井の一部がぱかりと開き、そこからドローンが投入された。小型とはいえ、室内に5体もいると視覚からも圧迫感を感じる。
リヨンの街で聖水をひっかけてきたのと同型か。
「あまり脅しのような真似はしたくないけれど……淫魔リリム。聖水を浴びたくないのならマリーさまを説得してちょうだい」
「……だってさ。マリー、僕このままだとそこのお姉さんに聖水で溶かされちゃうみたい。怖いねぇ」
「──リリムに聖水を?」
マリーはドローンをじっと見上げて、次にイワサキを見た。
マリーの夜の瞳に、みるみる涙が溜まっていく。胸の前で手を汲んで、上目遣いにイワサキを見上げた。
「……お姉さま……お願い……リリムをいじめないで……! リリムは大事なお友だちなんです……!」
マリーのかわいい顔に、イワサキはまともに動揺した。わずかによろめいて、胸元のロザリオをぎゅっと握りしめる。
「ッ……マリーさま……貴女を悲しませたいわけではないんです……。いえ、貴女に犠牲を強いるようなことを計画した我が身の罪は自覚しております。ですが、どうしても、人類の救済にイエスさま復活を……」
「……どうしても、リリムをいじめますか?」
「──ええ。貴女さまにいくら嫌われようとも。私はこの使命を成し遂げて見せます」
イワサキは真剣な眼差しで断言した。
マリーが悲しそうに瞳をふせる。
「……そう、ですか……」
小さな声のあと、マリーはきゅっと顔を上げた。いつも通りのおてんばな声がモニタールームに響く。
「じゃあ、やっちゃいましょうか! リリム!」
「そうだね、マリー」
──それでこそ、リリムのマリーだ。
クライマックスです。最後までよろしくお願いします。
評価・ブックマークなどで応援していただけるとありがたいです。




