64 最も古い最弱の淫魔
マリーは涙の膜が張った瞳で、義兄の後ろ姿を後部座席から見つめる。義兄の赤い瞳はちらりともこちらを向かなかった。
「リリムは享楽的に見えるけれど、ちゃんと損得を考えて生きてる。俺なんかよりずっと強かだ。マリーやイザベラと一緒にいるのが不満なら、もうとっくの昔に自分から出ていってた。リリムはそういう子だろう?」
「……でも……リリムは……」
「そう。リリムは、きみのことが大好きだったから、出ていかなかった。きみと一緒にいることを選んだ。こんなことになるとは考えていなかったにしても、結果をマリーだけが背負う必要はない。
俺がマリーにお願いしたいのは……リリムが、本当にきみを大事にしてたんだってコトを、ちゃんと知っておいてほしいんだ」
「リリムは、ずっと私のことを大事にしてくれてました! ちゃんと知ってます!」
「本当に?」
「もちろんです!」
「じゃあ──誰に、なにを要求されても、ちゃんとリリムが大事にしてたマリーを、大事にできるか?」
義兄の言葉に、マリーは一瞬首を傾げる。
リリムが大事にしていたマリーを大事に。
リリムが心配だから、離れる選択をするのは、リリムが好きな自分だろうか。リリムを巻き込まないために、計画通りに生きるのは、リリムがなってほしい自分だろうか。
リリムが好きでいてくれたのは、マリーがマリーだからだ。
「──はい。イザベラとも約束しました。勝利条件は、私の自由な未来をつかむことです。私がこれから、どんな人生でも選べるように、運命を打ち砕く私でいます」
「……うん。そうだな。そのために、俺もマリエッタもきみを助ける」
「ええ! マリー、貴方のおねえさまもおにいさまも、とーっても強いんだってところを見せてあげますよ!」
「はい!」
涙を拭いて、顔を上げる。バックミラーからちらりと見えた赤い瞳は、ほんの少し微笑んでいた。
怒っていた義兄。それはマリーに対してじゃない。きっと、忠告をしなかった自分と、リリムを攫った相手に対してだ。もしかしたら、珍しく苛立っていたのかもしれないけれど、本当に呆れるくらいやさしい苛立ち方だ。彼が悪魔なんて聞いて呆れる。
義兄よりも、リリムは悪魔らしい悪魔だ。きっと人間相手にやられっぱなしにはならない。
よわっちいリリム。取り戻したら、ちゃんと私がしっかり守ってあげなくちゃ!
ぎゅっと拳を握り締める。もう、リリムと会うまで泣いたりしない。
街から車を走らせて30分ほど経っただろうか。
ナザレの街から少し離れるだけで、すぐに建物が見えなくなる。土地は開発途中のようだが、ところどころで建材が放置されていた。道路脇は鬱蒼とした森が覆っている。きっと、これまで通ってきた道も森の木々を切り倒して更地にしてつくったのだろう。だから森が突然現れたように見えるのだ。
「この辺りかな」
ファウヌスが車を止めて、スマートフォンを確認する。イザベラから送られてきた地図を見ると、目の前に科学調査班の研究室がないとおかしい。
「地下でしょうか」
「そうだろうね。どこかに出入り口があるんだろうけれど」
車外に出たマリーとマリエッタは周囲を見渡す。森と無機質な建材しかない。なんともさみしい場所だなと思う。建材の裏とかに出入り口がありそうだけれど。
「ああ、マリー。別に探さなくて良い。危ないからちょっと離れてて」
ファウヌスは車から出て、そっとマリーの肩を引いた。そのままマリエッタに預けられて、ふたりでファウヌスを見つめる。
義兄の赤いまなざしが、森へ向けられた。
ずしん、と目の前の平地が沈没する。
エスコリアルの町くらいの規模で、ぼこりと地盤が円形にへこんで大地がへしゃげた。
「ぴえ」
「わあ」
姉と思わず小さな声を上げる。無意識に姉の体に抱きついてしまった。
ファウヌスは涼しい顔をしたまま、陥没した大地──のようにカモフラージュされた地下建造物を冷ややかな目で眺める。今や研究所は鉄屑同然だ。
「……木の根っこで地下をまさぐった。イザベラの地図は正確だったな。すぐ見つけられたから勢いが余った」
いつも通りの穏やかな口調だったけれど、涼しい目元はちっとも笑っていない。
「──まあ、リリムを攫ったんだ。これくらいは構わないだろ」
……やっぱりおにいさま、めちゃくちゃ怒ってる……。
見た目分かりづらいですけど、マジギレしてます。
「お、おにいさまって、怒ると怖いタイプだったんですね……! おねえさま、知ってました?」
「ふぁ、ファウヌスが怒ったの見たことないです……! 怒ることあるんですね……!」
5年生活をともにした妻でも、びっくりしてちょっと泣いている。悪魔のくせに5年も怒ったことないとか、善良過ぎて別の方向でも不気味だ。
「あ、ごめん。ふたりとも、びっくりした? でも、入口はわかったぞ」
やさしいひとほど、怒ると怖い。
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