63 離れるなんて考えたこともなかった
雨期の前の湿った風が乾いた土地にゆっくりと流れる。
車内からちらりと見たナザレの街は冬を前に活気に満ちていた。
「こんなに賑やかな場所だったんですね。もっと田舎だと思ってました」
イスラエルの北部に位置するナザレの街はキリスト教圏の人間にとって特別な場所だ。新約聖書において聖母マリアがイエス誕生を大天使ガブリエルから告げられ、イエス誕生後は聖家族が暮らし、イエスの成長後は伝導活動の拠点となった土地である。
「今でこそキリスト教圏の人間にとって特別な場所で観光地化してるけれど、もともとはなにもない田舎だったよ。労働者階級の街で、だからこそイエスが新たな神の解釈を広めようと思ったんだろうな。
受胎告知教会、聖ヨセフ教会、聖ガブリエル教会……いずれも現在の建物自体は20世紀に入って再建されたものだ。かつてのこの土地はイスラム教徒や十字軍の占領なんかがあって、治安が安定しなかった。立派な建物が建つようになると街も繁栄して、今はイスラエルの中でもちょっとした都会になってる」
レンタカーを運転していたファウヌスが、マリーの疑問に応えてくれた。リリムみたいな説明の仕方だ。多分、リリムの方が義兄を真似ているのだろう。
もともとキリスト教は、ユダヤ教のなかから生まれた宗教だった。当時エルサレムのひとびとはユダヤの教え『律法』に則って生活していたものの、かなり細かな部分まで決まりごとがあって、毎日働き詰めの労働者のひとが守るには厳しいところがあった。それに、女性は『律法』を学ぶ機会がない。それをイエスさまが『神を信じる気持ちがあれば十分じゃないか』と言っていろいろなひとの心を支えたのが、キリスト教のはじまりだ。
リリムが教えてくれた。夢でも視たので、多分あっているはず。
「とっても興味深い場所です。わたしもはじめて来たので、全部終わったら巡礼してもいいですか?」
「もちろん。俺もこの土地に来るのはひさびさだから、旅行して帰ろうか」
「はい!」
「……」
姉夫婦は相変わらず仲が良さそうで結構なことだ。傍にリリムがいないので、ことさらさみしく思える。私も、リリムを助けたらナザレの街を見てまわりたいなぁ。
リリム、大丈夫かな。
夢では元気そうだったけれど、彼は格好つけなのでマリーに対して痩せ我慢している可能性もある。そう簡単に消滅しないとは思うけれど、危険がないとは言えなかった。痛いことをされていないといいけれど。
今も目をつむると、リリムの攫われた瞬間が脳裏をよぎる。全身の血の気が引いた。
彼はマリーを取り巻く陰謀に巻き込まれて死ぬかもしれなかったのだ。
自分のせいで、リリムが死ぬなんて嫌だ。今までたくさん支えてくれた、大事な大事な友だちで相棒なのだ。
「……マリー、弱気になってますか?」
車の助手席から姉が声をかけてくれた。大人しくしていたので心配させてしまったらしい。
「……リリムがもし私と関わってなかったら、こんな怖い目には遭わなかったのかなって考えてました……」
「……リリムはそうかもな」
運転席の義兄が、小さな声で言った。珍しく姉がファウヌスを鋭くにらむ。
「ファウヌス。いくら貴方でも、マリーを傷つけることは許しません」
「傷つけるつもりはない。ただ、リリムがマリーたちの騒動に巻き込まれたのは事実だ。俺はマリエッタの夫だし、巻き込まれるのだってわかっていてお前と結婚した。だから、そこでなにがあっても構わない。マリエッタのためならこの身を賭ける」
「……ファウヌス……」
「でも、リリムはそうじゃない。あの子はいつもと同じように気に入った女性を見つけて、そのひとに頼まれてマリーの面倒を見はじめて、マリーごと気に入っただけだ。俺みたいに覚悟してお前たち姉妹に関わったわけじゃない」
いつもやさしい義兄の冷たい声が、マリーの胸に突き刺さる。だって、本当のことだ。
マリーがリリムを巻き込んだ。
死んでなくても、つらい思いをしている。どんな扱いを受けているかもわからない。
自分の目に涙がにじむ気配がする。泣いてもどうしようもないとわかっているけれど、リリムと義兄に申し訳なくて、なにもできなかった自分が悔しくて、涙が止まらなかった。
「……ごめんなさい……おにいさま……ごめんなさい、リリム……」
「──でも、リリムは後悔してないと思う」
ファウヌスの声は冷たいままだ。顔を上げても、整った顔は前方を見つめたままハンドルを握っている。きっと彼は怒っているのだろう。
でも、それはマリーに対してではない気がした。
「リリムは悪魔としては若いとは言っても、もう十分経験を積んでる。だから、マリーの事情を知っても離れなかったのは、それだけマリーのことを気に入っていたからだ。だから、巻き込まれたのはリリムの選択の結果でしかない。マリーが謝る必要はない」
「でも……それは私がリリムに甘えてたから……リリムが私のこと大事にしてるのを知ってて、手を握ったまま離さなかったから……」
隣にいるのが、当然だと思っていた。
毎日「今日もかわいいよ」って言って髪を整えてくれて、朝はお茶を入れてくれて、キスされて。お勉強を教えてもらって、一緒にごはんやおやつを食べて、町へお手伝いに行って。修道院のひとからも町のみんなからも、リリムとマリーは一緒にいるのが当たり前みたいに扱われていた。
自分の生まれのことで迷惑をかけることになるなんて、考えたこともなかった。リリムは将来のことをすごく心配してくれていたから、それが少し鬱陶しくて、うれしかったくらい。
離れた方が良いなんて、思ったことなんてない。それくらい、リリムと一緒にいるのは当たり前のことだった。
「うっ……リリムがこんなコトになるなら、私、リリムとさよならした方が良かったんでしょうか……」
「……マリーがこれからどうするかは、マリーと、リリムの話だ。俺はそれに干渉しない。これからのことも、これまでのことも……マリーの選択で、リリムが選んだことでもある。
──俺が言いたいのは、リリムが、ちゃんと選んでマリーの傍にいたってことだ」
評価・ブックマークで応援よろしくお願いします!




