61 悪魔の契約
この選択に、迷いはある。
こんなことを自分から言えば、きっとマリーは驚いて、傷つくだろう。マリーを傷つけたくはない。けれど、その先にマリーにとっての大きな利益があるのなら、マリーに少し嫌われるくらいは許容してもいいとも思っていた。
……ものすごく嫌われるとなると、かなり迷うけれど。
でも、きっとマリーはこのことで、リリムと二度と口を利きたくないとは言わないだろう。その程度には好かれている自信があった。
「……条件をひとつ追加して。
『マリーの心身を傷つける度、マリア・イワサキの運命を淫魔リリムに譲渡する』ってね」
リリムの提案に、イワサキが眉をひそめる。
「……わたしたちはマリーさまを傷つけるようなことはしないわ」
「どうかな。少なくとも、マリーは僕が攫われて泣いてたよ。めちゃくちゃ傷ついて怒ってる。
──二度とマリーを泣かせるな」
にらみつけると、イワサキはリリムの視線を避けた。反論が思いつかなかったのだろう。
「……わたしの運命を譲渡する、というのは?」
「そのままの意味だよ。話を聞く限り、お前はずいぶんと生まれやしごとに恵まれている。星の巡りが良い人間なんだろう。そういう人間の運は、僕たち悪魔にとっても価値がある」
「でも、運なんて譲渡できるの?」
「イワサキ。お前が提案しているのは”悪魔の契約”だ」
悪魔の契約、という言葉を耳にして、イワサキの表情が引き締まる。怯えの混じった黒い瞳がじっとリリムの様子をうかがってきた。
いいね。愉しくなってきた。
リリムは目元を三日月型に歪めて、イワサキに満面の笑みを向ける。
「悪魔の契約──契約者が望むものと引き換えに、悪魔は契約者の運命を書き換えて、契約通りのものを徴収する。よくある話だよね。長寿や莫大な富を願った人間が、悪魔と契約を交わすんだ。その契約を反故にすれば、契約者の魂は地獄に囚われ、二度と神の国へ入れない」
リリムの言葉に、イワサキは数拍沈黙した。
聖職者として地獄へ堕ちる、というのはなかなか強烈な意味を持つ。ひとびとを神の国へ導くことが聖職者の役割だ。そのために何年も勉強と修行を重ねる。そんな努力を捨ててまで成し遂げたいほどの強い願い──ひとの道を外れた欲を優先するのかどうか。
それは、誘惑への入口に自ら立つということ。
イワサキは、小さく、うなずいた。黒い瞳には覚悟が宿っている。
「……ええ。そうね。それでもわたしは──人類の精神的救済のために、この身を悪魔に捧げるわ」
「いいね! 契約成立だ」
リリムは形の整った指先をイワサキに向ける。指先にわずかな魔力が灯った。声変わりしたばかりの声で契約を宣言する。
「『淫魔リリムはマリア・イワサキの要望に沿い、マリエッタ・エーレンスヴァルド・グノーシスに『処女受胎』を促す説得を試み、その後は2人に無制限の経済的援助を行う。
また、説得の際にマリエッタ・エーレンスヴァルド・グノーシスの心身を傷つける度、マリア・イワサキは淫魔リリムに運命の総量1パーセントを譲渡する。
この約定をどちらかが反故にした場合、反故した者は肚を蟲に引き裂かれて断末魔の叫びを上げて死ぬ』」
契約内容を読み上げると、リリムの指先の魔力がイワサキの肚に転移する。魔力はそのままイワサキに定着して、気配はそのまま女の中へ溶けて消えた。
「……ずいぶんな死に方ね」
「僕は殺されかけたし、マリーに手を出したんだ。これくらはね。でも大丈夫。契約を破らなければいい。どこかの戯曲の悪魔の契約とは違って、一生を縛る契約でもないしね。契約っていうのは大きな利益を望むほど、その対価は大きくなる。今回の対価はそう大きなものじゃないから、お前への負荷も重くはないさ」
「……意外ね。貴方、小さなマリエッタさまの出産には反対しているでしょうに。その対価は、大きなものじゃないの?」
「……僕にとってはなによりも大きいさ。でもね、魔術の世界はシビアなんだよ。一般的に魔術世界で、出産の説得を試みるなんて行為は本来契約にも値しない行為だ。命のあり方や運命を捻じ曲げるわけじゃないからね」
「そういうものなの」
やはりイワサキはさほど魔術世界には詳しくないらしい。彼女の言葉が嘘偽りないのであれば、聖職者として奉仕活動や研究に時間を割いているのだろう。実にまっとうな人間だ。くだらない。
「さて。それじゃあ、マリーが来るまで僕はくつろがせてもらうよ。病室じゃなくて、私室をちょうだい。あと、こんな病人の着る服じゃなくて、カッコいい服も持って来てよ。かわいいマリーが来るんだから、僕も負けないくらいカッコよくないと」
「……まるでデート気分ね」
「マリーといるなら、どこでもね」
* *
「……リリムくん?」
「なに?」
リリムは三人がけのソファで寝そべって ゲームに興じながら、見張りらしき男をちらりと見た。
リリムを電気ショックで焼き殺そうとした、よれた白衣を着た中年男だ。アジア人と白人との混血だろうか。平凡な顔つきをしているが、ぼさぼさの黒髪と無精髭でだらしなさのほうが印象に残る。
男はカルテのようなものを抱えて、部屋の入り口付近に突っ立っていた。
部屋は病院のVIP個室みたいなつくりでそれなりに広い。入口付近にいるのは、リリムを警戒しているのだろう。
「ゲームしながらで聞いてくれていいんだけれど、さっきの怪我ってどうやって治したの?」
「魔術を使ったんだよ。細胞を活性化させる魔術」
「へえ! そんなのがあるのか」
男は素直に驚いて見せて、手元の書類になにかを書き込んでいく。怪しい動きはないので、リリムも話を続けた。
「もう人間の世界ではほとんど見なくなったね。使える魔術師がいなくなっちゃった」
「昔はいたの?」
「昔は……少しはいたかな。珍しくはある」
「うーん、人間の細胞分裂の回数は大体決まってるから、リリムくんみたいに使うと普通に寿命が縮むだろうね。使えても一回くらいなんじゃないかな」
「へえ。だから人間の使い手がいなくなっちゃったのか」
「そうなんじゃないかな。悪魔みたいに不老じゃないと使い所がなさそうだ」
男はそう言いながら、手元の書類に書き込みを続ける。
リリムはゲームの液晶画面からわずかに顔を上げて男を見た。
「……なにしてんの?」
「ぼくの専門は生体科学なんでね。悪魔の生体なんて滅多に確認できないから、ここで聞き取り調査をしてる」
「悪魔の生体なんて研究して、どうするの?」
「悪魔を殺すんだよ。ここだって一応グノーシス調査機関の一部署なんだ。きみはすごいサンプルだよ」
リリムは引いた。殺すための研究と言われると、普通に嫌な気分になる。
「……僕、もうなにもしゃべんない」
「ええー! そう言わずに! リリムくんって歳いくつ? どこ住み? 学校行ってる? 好きな食べ物ってなに?」
「すごい不審者……僕は普通に女の子が好きなんで……」
「ナンパだと思われてる! 誤解だ! ぼくだって女の子の方が好きだよ! マリエッタさまたちの外見をデザインしたのもぼくだ!」
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