57 ゆめのなかで
「……元気の良いお目覚めね。淫魔リリムくん」
真っ白な部屋に入ってきたのは、かつてエルサレムで親切にしてくれた日本人シスターだった。
黒い髪、黒い瞳に滑らかな肌。けれど造作に目立ったものはなく、ほどほどに整ってはいるが、マリーには似ても似つかない。強いて言うなら、おそらく異様な若作り。それなりの年齢なのだろうが、大目に見積もってもせいぜい30代前半にしか見えなかった。
「どうも。シスター・メアリだっけ? いや、マリア・イワサキが本名なんだったか。わざわざご招待ありがとう」
「あら、わたしの本名を知っているのね。ソフィアさまにでも聞いたのかしら?」
「うん。でも、洗礼名がそんなにどこにでもある名前とは思ってなかったから、最初は気がつかなかったや。ほんと、マリーとはぜーんぜん似てないし」
「わたしは遺伝子を提供しただけだから、あんなにかわいらしい容姿じゃなくてごめんなさい?」
イワサキは悪びれもせずに肩をすくめた。それから、周囲へぐるりと視線を向ける。
「ところで。貴方には眠り薬を嗅がせていたのだけど……これ、どうやったの?」
部屋には見張りの男が二人倒れていた。
ファウヌス宅ほどの広さの空間の壁には男たちが持っていたマシンガンの銃創がいくつも残っていて、警備ロボットが黒焦げになって床に転がっている。
無事なのは、リリムひとりきりだ。
リリムは薄く笑って肩をすくめて見せる。
「僕は淫魔だよ。夢を通じてひとの心を操る悪魔だ。目を閉じた夢の世界は、僕の領域」
夢の中から、意識のある見張りの男たちの無意識領域に潜り込み、同士討ちさせた。
警備ロボットはリリムの雷の魔術で燃やした。大したことではない。
イワサキは静かな表情で部屋を見渡した後、薄く微笑みを浮かべる。
「……そう。わたしも、まだまだ悪魔については勉強不足のようね。悪魔の階級でも下位に位置づけられる淫魔がこれほどの力を持っているなんて思わなかった」
「そう。なら勉強していくといい。個人レッスンは得意なんだ。サービスするよ」
マシンガンで削れたコンクリートの破片を宙に浮かべる。切っ先をメアリに向けた。
メアリが小さく聖なる言葉を口にする。
「いと高き方のもとに身を寄せて隠れる人は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう、『我が避けどころ、我が砦、我が信頼する神』と」
メアリの周囲に結界が張られる。ただし、マリーのものほど分厚くない。問題なく壊せる。
「hagalaz」
ルーン文字で殺傷力を高めたコンクリート片をメアリに向ける。
その瞬間。
目に見えるほどの電流が部屋に流れた。
電気ショックでリリムの臓器が焼け焦げる。呼吸もできず、無様に頭から地面に倒れ込んだ。
「……ッ!」
「──ちょっと! なにするのよ!」
イワサキが顔色を変えて叫んだ。
イワサキの隣、出入り口の傍からよれた白衣を着た中年の男が顔を出す。男はリリムの様子を確認して、ぎょっとした表情を浮かべた。
「げっ⁈ 人間の男の子じゃん! 悪魔が相手だって聞いてたから猛獣用高出力電気ショック用意してたんだけど!」
場違いなほど軽い口調の悲鳴を上げて、男は慌ててリリムに駆け寄ってくる。体の具合を確認する手付きは素人のものではない。医者かなにかだろうか。
まあ、痛すぎてもう触られる感覚もないけど。マジで人間なら死んでるよ、これ。
「内臓まで火が通ってるんだけど! なんでこの子生きてんだ⁈ 本当に悪魔なのか……」
「ええ。彼は正真正銘悪魔よ。治療はできる?」
「悪魔って人間の治療方法でいいのか?」
「文献では精気を取り込むとあるけれど……ここは神の家よ。悪魔が好むような陰の精気はないわよね……」
「ひとまず、人間の方法で治療をしよう」
男がスマートフォンからどこかへ連絡を入れると、すぐにストレッチャーが来てリリムの体が運び出された。
なんだ? コイツら……。
全身が灼けて激痛さえ遠く感じる中で、リリムは妙な感覚を抱く。彼女たちからは、あまりにも敵意を感じなかった。
それでも、今死にそうになっているのはコイツらのせいだ。
次に意識が戻ったら殺してやる。
殺意と痛みに意識が沈む中、女の声がかすかに鼓膜まで届く。
「……ごめんなさい。リリムくん。貴方に危害を加えるつもりはなかったの。許してね……」
/*/
全身を電流で焼かれて、呼吸をするだけで痛む。酸素を十分に肉体へ送れない苦しみに何度も意識が落ちた。夢と目覚めの不定期な繰り返しに、上手く魔術を使うこともできない。
それでも必死に霧散した意識を集めて、集束させていく。
意識がかすかに戻ってくる。
なんとか辺りを見渡すが、周囲にはなにもなく、白く薄い霧のようなものが漂っているだけだ。天地の概念も曖昧な世界。
誰かの夢だ。
こういう夢は珍しい。人間の夢は大抵、願望や過去の経験をもとに世界が彩られる。アシェルの時のように本人が見ていない出来事であるならともかく、人間の夢が輪郭を保っていないことはほとんどない。
ここは誰の夢なんだろう。
さっき警備員を使って部屋をめちゃくちゃにしたので、なんの対策もせずに見張りを立てることはないと思うのだが。
微かに誰かの気配を感じた。
気配の方に視線を向ける。夢の世界では距離など関係がない。近くに立っていると思えば、そこにいる。そういうものだった。
気配の主は、マリーだった。
はじめて出会った時に着ていた、ピンクのオーガンジーを重ねたドレスを身につけている。つややかな黒髪にはリリムがあげたフォギーピンクのバラが飾られていた。けれどその姿は15歳現在のもので、たっぷりとした生地のスカートから見える脚からは、健やかな成長が見てとれる。
バラの妖精さんみたいだなぁ。
はじめて会った時も思ったけれど、あのころより、ずっとかわいくてきれいで、本当に人間なのかと疑ってしまうくらい魅力的に見える。
「……リリム……?」
評価・ブックマークなどで応援よろしくお願いします!




