56 マリア・イワサキ
『……そうですか。リリムが……』
姉と義兄とともにタクシーに飛び乗って、車内からイザベラにビデオ通話で現状を報告する。
リリム拉致の話をした時は、さすがにイザベラの表情も固くなった。
『……それで、マリー。貴女の体は大丈夫なのですか?』
「私は問題ないです。今すぐリリムを助けに行きます。だから心配しないでくださいね」
『心配するに決まっているでしょう』
「リリムの方が心配です!」
つい苛立った声を上げてしまった。マリーはすぐに反省して、深く深呼吸をする。
イザベラを困らせたいわけじゃない。イザベラは拉致した犯人のことを一番よく知っているはず。だから、ちゃんと情報を確認しなければいけない。
「……イザベラ。今まで興味なかったので訊ねませんでしたけど、私たちを造ったひとたちのこと、改めて教えてください」
「……俺からもお願いしたい。イザベラから見て、リリムは無事だと思うか?」
隣に座ったファウヌスがイザベラに話しかける。いつになく硬い表情で、彼もリリムのことを心底心配していることがわかった。
『……彼女たちにとっては本来、リリムはすぐに消滅させて問題ない相手のはずです。街中では彼を殺すほどの聖水を確保できなかったのかもしれませんが、攫うよりその場で行動不能にしてもよかったでしょう。
ですが、そうはしなかった。きっと、彼をマリーとの交渉の材料にしようとしているのでしょう』
「交渉の材料?」
『たとえば──彼の命とひきかえに、マリーに『マリエッタ計画』の完遂を誓約させる、とか』
マリーになんらかの手段で妊娠させ、神の肉体を産むことを約束させる。そうすれば、リリムの命は助かる。
「それは……」
『マリー。貴女は今、『そんなことくらいならいくらでも』と思ったでしょう。それが彼女の狙いです。思惑に乗ってはいけません』
「でも」
『貴女の体も、人生も、貴女のものです。誰になにを強要されても、そこに正当性はありません。
──リリムも助けて、貴女も自由に生きる。それが、貴女の絶対の勝利条件です』
イザベラの気高いまなざしと声に、思わず背が伸びた。きゅっと唇を引き締める。
そうだ。マリーが自由に生きるために、イザベラもリリムもこれまで傍にいてくれたのだ。リリムだって、マリーがそんな選択をしたら怒るに決まっている。
「……はい……はい、イザベラ! 私、まだ妊娠なんてしたくないです! 神さまなんかより、自分と大好きなひととの赤ちゃんを産みます! リリムと一緒にたくさんほかの国へ旅行に行きたいです。ちゃんと勉強して、リリムと一緒の大学へ入って小さくてかわいいアパートでルームシェアするって約束しました!」
『その話の是非については、淫魔リリムを交えてまた話しましょう』
しまった。イザベラの母親ガードが発動してしまった。ごめんなさい、リリム。後でなんとかしてください。
「……イザベラ。もう少し、科学調査班のことを教えてくれないか? 俺も──俺なりにリリムのことは世話を焼いてきたんだ。今回みたいなことはさすがに看過できない」
『そうですね。私が知っている限りの情報をお話ししましょう。
今あの計画を中心となって進めているのは、洗礼名シスター・メアリ、本名はマリア・イワサキと言います。日本人で、年齢は40歳。日本の旧華族傍系の末娘として生まれました。生家がカトリック教徒で、彼女の名前は聖母マリアから戴いたものと聞いています。
良家の子女として何不自由なく育ち、本人も勤勉で、信仰心が厚く、弱者救済に奔走して休みなくボランティア活動に精を出していました。その傍ら、勉学も優秀で、ハイスクールからイタリアへ留学して考古学と聖書研究の道に進み、20歳で大学院を卒業。すぐにエルサレム聖書学院で聖母研究に携わります』
「……ムカつくくらいハイスペックなひとですね……とくにお金持ちそうなのが腹立ちます」
『まったくです。彼女は、平たく言うと上流階級。それも、これから三代はなにもしなくても食うに困らないような本物のブルジョワです』
イザベラも、珍しく吐き捨てるように言った。イザベラも、そしてももちろんマリエッタも、お金にはそれなりに苦労してきている。
『彼女は善良で、頭が良く、お金持ちのお嬢様です。ですが、それだけならばなにも問題ありません。彼女の異常性は別の部分にあります』
「私とおねえさまを造ろうなんて考えるんですから、頭おかしいに決まってます」
『それはまた別の話ですね。貴女たちの体をつくったのは、彼女ではないので。
彼女の異常性は、”とんでもなく幸運である”という点です。とくに金運については群を抜いていて、彼女がなにかに投資すればおよそ常人に為し得ない成績を上げます。その対象が株だろうがベンチャー企業だろうがコモディティだろうが、彼女が投資した先はどんなにデタラメな内容でもお金を産み出します』
「ひぇ」
「ときどきいるな。そういう星の巡りが異様に良い人間って」
『ソフィアがかつて興味本位で占っていましたよ。金運や財運みたいなものを彼女たちは黄金律と呼びますが、イワサキの黄金律は神の加護としか言いようのない巡りだとか。
そして、いつもお金のない教会、考古学・聖書研究、そして調査機関……彼女に目をつけるに決まっていますよね。今バチカンやエルサレム聖書学院、調査機関が進めているプロジェクトの3割はイワサキの資金援助や口利きで進行しています。彼女を失うとそれらすべてが止まり、一部教会の運営はままならなくなり、遺跡の発掘は遅れ、まだ未解明の聖書研究も頓挫してしまいます』
正直、マリーにとっては意外だ。
もっと悪いことをして機関を乗っ取ろうとか、誰かの秘密を握って脅して計画を遂行している悪の秘密結社みたいなのを長らく想像していたのに、ただひたすらお金を教会に渡しているだけのひとらしい。
「……なるほど。今までイザベラが妙に波風立てないように振る舞っていると思ったら、財布を握られてたのか」
『シンプルに教会にはお金がありませんからね。それに、さらに厄介なのは、彼女はそれをカサに着るわけでもなく、自ら進んで寄進しているのです。彼女は神の教えに忠実に祈りをささげ、弱き人々のため、信仰のために寄進と研究を進めているのです』
「そんな立派な人物が、なぜ『マリエッタ計画』みたいなアホの計画に乗ったんだ?」
「そうです! そのひとアホなんじゃないですか?!」
『同じコトを言ってやりましたよ。けれど彼女は……『それで再び神の声をひとびとに届けられるのであれば、力を尽くすべきだと思ったのです』と』
イザベラの話しを聞くと、ずいぶんいびつなひとだな、とマリーは首を傾げた。
「なんでそんなこと、わざわざやろうなんて思ったんでしょう? 本当にうまくいくかわかりませんし、私は未だに自分の産んだ赤ちゃんは神さまになりますよ、なんて話半信半疑なんですけど」
『普通はそうですね。それはみんな、心のどこかで「そんな途方もないことがうまくいくはずがない」と思っているからです。身の程を知っている、あるいは自分の限界を定めているとも言えます。
イワサキはそうではありません。彼女は優秀で、生まれた時からなんでも持っていて、その黄金律でほとんど望む全てを手に入れてきました。だから彼女は口では「うまくいかないかも」などと言っておきながら、その実、「自分がやれば必ず上手くいく」と考えているのです。面の皮の厚い女ですね。最悪です。私ならそんな思い上がりを一瞬でも抱いたら恥ずかしくて表を歩けません。ですが、彼女はそれを言うほどの実績があります』
「イザベラ、ちょくちょく彼女のこと痛烈にディスってるけど、嫌いなのか?」
『大嫌いです。関わりたくありません。私は彼女の、「私がみんなを救ってあげなくちゃ」みたいな聖女ムーヴが心底うっとおしいです。やるなら黙ってやれって話ですから』
イザベラがひとの悪口言っているのをはじめて見た。結構顔に出るんだ。
『……ですが、エスコリアル修道院の維持費も、さらにはグノーシス調査機関神秘調査班の調査実費の立て替えも、彼女の私財で賄われています。あの女の施しを受けたくなくて、調査員にはひもじい思いをさせてしまっています……ですが、そうは言っても限界があり、あの女の支援なくして運営は成り立ちません。ある程度は彼女の要求を飲む必要があります』
「それで、マリエッタやマリーの養育を貴女が請け負ったのか」
『指名されてしまいましたので。あんな女と同期になるなんて、私の運とやらはほとんど機能していないのかもしれません』
あまり良い方ではないのだろうな、とは思う。特にお金について、イザベラはいつも苦労していた。
今までものすごくしかめ面をしていたイザベラだけれど、一瞬、表情が緩む。
『……ですが、彼女の判断は、最終的には正しいことが多いのです。結果が後から付いてくる。……私を、マリエッタとマリーの保護者にしてくれましたからね』
「イザベラ……」
「イザベラさま……」
『……そういう経緯もあって今までは大人しくしていましたが、今回はいくら悪魔相手でも目に余ります。マリーに対しての自由も脅かす気配がありました。この件については私の権限で彼女にお仕置きをすることにしましょう』
「……大丈夫か? さっきの話を聞くと、イザベラが表立って動くと報復に資金を引き上げられるんじゃ……」
『大丈夫です。あの女は心底善意から教会に寄進しています。個人的な感情でほかの修道士や修道女の生活を脅かすことはありません。私が今まで大人しくしていたのは、彼女のそういった善性にのみ最大限敬意を払っていたまでです。──ここぞとばかりにボコボコにして差し上げますよ』
イザベラの銀の目が燃えていた。よほどイワサキのことが嫌いらしい。
「……マリーの話では、彼女はナザレの教会にいるって?」
『ええ。そこから少し外れた地下に、科学調査班の研究室があります。イワサキがいるならそこでしょう。リリムも交渉のため、そちらに運ばれているはず。いなければ、イワサキを殴った後で私に連絡を入れてください。私が居場所を吐かせます』
「わかりました。なら、すぐにイスラエルへ飛びます。それで、絶対にリリムを助け出します!」
『頑張りなさい、マリー。マリエッタ、淫魔ファウヌス。マリーのことを頼みましたよ』
「はい! イザベラさま!」
「もちろん。……リリムは俺の、教え子だからな」
イザベラもそれなりにリリムには愛情を持っています。子どもとしてですが。
リリムはあまり子どもとして愛された感覚はありませんが、実はちゃんとファウヌスにもイザベラにも子どもとして愛されています。
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