51 約束しよう
お風呂から出て身支度を整えてマリエッタの部屋に入る。マリーはスマートフォンをいじっていた。
「なにしてるの?」
「ジョンさんにメールしてました。前から疑問に思ってることがあって、さっそく確認してたんです」
ジョン。ファウヌスの友人。今朝画面越しに顔を合わせた、いい人間。
「リリムはなにすねてるんですか?」
「すねてない」
「んふふー。私が黙ってほかの男のひとにメールして、妬きもち妬いちゃったんでしょ?」
「妬いてない。マリーはジョンにわからないことをメールしただけ。別に妬くことなんかひとつもないよ」
「はいはい」
なぜかマリーは仕方がないな、という体でリリムに抱きついてきた。お風呂上がりのいい匂いが鼻腔をくすぐる。リリムも反射的にぎゅっと抱きしめ返した。
「じゃあ、そろそろ寝ようか。たくさん寝て体をつくることも、マリーが素敵な女性になるには必要なことだよ」
「はい」
電気を消して、ふたりでベッドに潜り込む。抱きしめたまま、腕の中のマリーの様子をうかがった。今日は朝からよく動いたし、頭も使ったから眠たそうだ。そう時間もかからず寝入ってしまうだろう。
今夜はできるだけ速やかに眠ってほしい。マリーの教育のためにも、ファウヌスと義姉のためにも。
そう思っていたのだが。
「………………あれ、なんかおねえさまの声が聞こえません?」
──おっぱじめやがった。
「なにか、おねえさまの苦しそうな声がするような……」
「そ、そうかな?! でも、じいちゃんも義姉ちゃんもまだ起きてるから、お話はしてるかもね。気になるなら防音の魔術を使ってあげようか。いや、そうしよう」
ベッドから手を伸ばして、壁に触れる。さっと魔力を流すだけで、マリエッタの部屋が結界に包まれた。
「これはなんの魔術ですか?」
「ただの強化の魔術だよ。壁はもともと空間を区切る、音を遮る、重さを支える役割があるでしょ。そういう起源を強化した、民間魔術だ」
民間魔術は本来儀式を必要とするが、リリムはこの程度なら儀式不要で使用できる。物質の起源と使命が強くなるように魔力を流せばいいだけだ。
腕の中のマリーは、きょろきょろと部屋を見渡す。周囲の様子に変化はないが、物音は聞こえなくなった。あの夫婦、本当に自重してほしい。
「ほんとになんでも魔術が使えるんですね」
「これは多分、マリーにも使えるよ。物質の成り立ちや意味を知らないといけないけど」
「また勉強ですか……」
「そう。いっぱい勉強してね。マリーは将来なにになりたい?」
「うーん。まだ決めてないです。エンジニアには興味がありますし、リリムが教えてくれた宗教学も面白いです」
「そうかぁ。どっちもいいなぁ。大学には行ったほうがいいかも」
「でも、リリムと一緒にした悪魔祓いも、悪くありませんでした。旅行みたいでしたし」
「危ないこともあったでしょ」
「無事だったじゃないですか」
「僕がいないと解決できなかった」
「だからリリムも一緒に、です。でないと意味ないですから」
──そうか。
マリーの将来には、僕がいるのか。
改めて考えたことはなかったけれど、なんの疑問もなく言われると、ちょっと照れくさい。
「マリーは僕のこと大好きだね」
「リリムだって私のこと大好きじゃないですか。リリムは将来どうするんですか?」
「うーん。僕は考え中」
そうだ。このままだと3年後には修道院から出ていかなければならない。
その間に、次の宿主になる女性を探そうか。けれど、イザベラという理想の相手を横目に妥協するのも、相手の女性に失礼な気がする。この5年、マリーの世話にかこつけてイザベラともかなりの時間を過ごした。あんな完璧な女性はほかにいない。強いて言うなら、30年後のマリーには可能性が秘められている。
それに、やっぱりマリーと離れ離れになるのはさみしい。マリーが本当にシスターとしての道を歩むと決めたり、別の男と結婚したりしたなら、別れは仕方がないことだ。でも、少なくとも今はそうじゃない。
眉間に皺を寄せたリリムの応えに、マリーは笑った。
「じゃあ私と一緒にいましょうよ。私が大学に行くなら、リリムも大学生になりましょう!」
「ええー。僕が今さら大学に行ってなにするの」
「現代の勉強をするのも楽しいですよ。リリムも昔は勉強家だったみたいですし、教えるの楽しそうにしてましたから、教師に向いてるんじゃないですか?」
「淫魔の教師とか、どんないかがわしいコミックの設定だよ」
「リリムはぜーったい子どもに手を出さないんですから、逆に安牌では? あと男子校の教師とか」
「本気?」
「はい。それで、リリムとはルームシェアするんです。ふたりでバイトして、かわいくて小さなお部屋で暮らすんですよ」
マリーは楽しそうに未来図を話してくれた。とても15歳の女の子らしい想像で、胸の奥がやさしい気持ちになる。
ここで、マドリードやリヨンなんかの都市部のアパートがバイト代だけで借りられるほど安くはない、などと現実的なことを突っ込んではいけない。万死に値する。
リリムはマリーの黒髪をていねいになでた。
「いいかもね。ちゃんとじいちゃんに料理習っておいて、修道院のよりはマシな料理を毎日食べよう」
「やったぁ! 毎日チョコレート食べたいです」
「それはお互いの稼ぎ次第だね」
「それじゃ、お給料のいいところで働かないといけないですね」
「家庭教師なんかは賃金が高いらしいよ。そういうのは、やっぱりそれなりの大学の方が有利だ」
「勉強に戻ってきちゃいました……」
「それくらい、学ぶことは大事ってコトだね。……そろそろ本当に寝なよ。明日も義姉ちゃんと走るんでしょ?」
「はい。おやすみなさい、リリム」
「うん、おやすみ、マリー」
「ずっと一緒にいてくださいね」
そう言って、マリーはリリムの頬に軽くキスをしてから、大きな瞳を閉じた。
本当にマリーってば、僕のこと大好きだなぁ。
マリーの頬にキスを贈り返して、やさしく胸に抱き寄せる。防音の魔術はちゃんと効果を発揮していて、ファウヌスとマリエッタのいかがわしい行為の音など欠片も聞こえてこない。ただ、マリーとリリムの鼓動だけがベッドの中でおだやかに響く。
とく、とく。とく、とく。
少しだけいつもより早い気がする。マリーの花のような匂いが、心拍を加速させた。
あ、あれ? なんか変だな。
これ、僕の心臓の音かな? いつもと違う気がする。
マリーはいつも通りの呼吸音で、体は細くてやわらかい。腕にかかる長い髪もいつも通りにつやつやだ。安心しきった様子でリリムの胸に頬を寄せている。かわいい。すごくかわいい。でもマリーがかわいいのはいつものことで、当たり前だ。
それなのに、どうしてこんなに胸がどきどきしてるんだろう。
「…………? ?」
よくわからないけれど、大学とアパートのことはちゃんと調べようと思いながら、ひとまず目を閉じた。
芽生え。
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