46 善人のお手本
朝、ふかふかのベッドで目を覚ましたら、隣で妖精が眠っていた。
なめらかな肌に艶やかな黒髪がかかって、呼吸する度にふわふわと揺れる。閉じた長い睫毛がうっすらと差し込んだ陽光できらきらときらめいていた。
かわいい。マリーだ。
無意識に頭をなでると、口元がふにゃりと笑みに変わる。ぎゅっと抱きつかれて、ようやく意識が浮上してきた。
「……マリー……? 朝は義姉ちゃんと一緒に稽古に行くんじゃなかったっけ……?」
目をこすりながら身を起こしたら、マリーも目を覚ました。あーあ、よく見たらヨダレ垂らしてる。ティッシュ、ティッシュ。
「んぁ、リリム……。おはようございます……」
「おはよう、マリー。二度寝?」
「はい。おねえさま、一緒に走っただけですぐにおしごとに行っちゃったので」
パン屋の朝は早い。そうは言っても、接客であれば一般的な勤務時間でいいはずだ。マリエッタはかなり早朝から出勤すると聞いていたので、職人の方で雇われているらしい。
出勤前では、せいぜい日課のジョギングとカンタンな組手くらいしかできなかっただろう。Tシャツにショートパンツという服装からも、そんな朝活内容が読み取れた。マリエッタが出勤してから時間を持て余して二度寝してしまうのも仕方がない。無限の体力でひとりでどこかへ行かれるよりは万倍マシだった。
「じいちゃんは?」
「おしごとだって言って、ずっとパソコン触ってます」
「じいちゃーん」
ベッドから抜け出してリビングに行くと、ダイニングテーブルでノートパソコンを開くファウヌスがいた。耳にインカムを入れていて、なにやら真剣に画面を見ている。
「じいちゃん、マリーほっといてしごとしてたらダメだよ。マリーがひとりでどこかへ行っちゃったらどうするの。狙われてるの、マリーなんだよ」
「……流石に、狙われてるのがわかっててひとりで外出したりしないですよ」
「ほんとに? ちょっとだけ朝のリヨンをひとりで見て回ったりしてない?」
「し、してないです! ……おねえさまに止められたので……」
「じいちゃん、やっぱりダメだよー」
動かないファウヌスの背後に回ってわざと大声で話しかける。マリーは、ファウヌスのしごとに興味があるのかちらちらと画面の中を覗き込んでいた。ウェブ会議中なのか、人物の映像だけが表示されている。
「じいちゃーん」
「おにいさま、これなんのおしごとですか? どんな会議?」
「……お前らな、ちょっと静かに……えぇ? いいよ、紹介とか」
珍しく苦り切った表情を浮かべるファウヌスが、なにやら画面の向こう側と会話している。ファウヌスは少しの間抵抗しているらしかったが、ついにインカムを外して、スピーカーをオンにする。画面の向こう側から陽気な声が飛んできた。
『すごい美少年と美少女だな! 片方は奥さんの妹? 二人の結婚式でフラワーガールをしてた子かな!』
陽気な声とともに画面にアップになったのは、三十代前半くらいのアメリカ人と思しき白人男性だった。くすんだ金髪に眼鏡をかけていて、一般的な容姿だが服や小物が一つひとつ洒落ている。ファウヌスの隣にいたら目立つだろうなと思った。間違いなく人間である。
「……彼はジョン。しごと仲間だよ。俺たちの結婚式にも来てくれた」
『オレはジョン・ジョーンズ。ファウヌスとは大学時代からの友人で、今はビジネス・パートナーだ。よろしく!』
ファウヌス、大学に行っていたのか。この悪魔は本当に知識を得ることには貪欲だな。
リリムは自分の髪をなでつけて、パジャマであってもきちんと見えるようにおじぎをした。
「おはようございます。僕はリリム。ファウヌスの親戚です」
「おはようございます! 私はマリエッタ。マリエッタ・エーレンスヴァルド・グノーシスです。どうぞマリーとお呼びください」
『へえ、妹ちゃんも同じ名前なんだね。なにか意味があるのかな?』
「名付け親はとくにマリアさま信仰が厚かったらしいです。それ以上のことは、私は知りません」
なるほど。そういう説明になるか。まあ、間違ってはいない。
ジョンもとくに追求する気はないようで、そっかー、と流している。ファウヌスとマリエッタの知人なら、マリエッタが孤児院にいたことくらいは話しているのだろう。マリエッタの妹なら、同じ境遇だろうということも。
『さっきからかわいい声が聞こえててさー、ファウヌスにぜひ紹介してほしくて頼み込んじゃったよ』
「……しょうがないだろ。イザベラから頼み事なんて珍しいんだ。ちゃんと引き受けて、印象を良くしないと」
『突然結婚しちゃったもんな。そりゃ、親族に嫌われるさ』
「本当です。もっと言ってやってください!」
『あははは! マリーちゃんもファウヌスのコトが嫌いなんだ。しょうがないヤツだな、お前は』
「……もういいだろ。ほら、リリム。マリーと朝ごはん食べて。こっちもすぐに終わるから」
『えー、このままつなげててくれよ』
「嫌だよ。俺にだって年長者としての威厳ってのが必要なんだ」
意外だ。ファウヌスがそんなこと気にしているなんて思ったことがなかった。
びっくりして思わずファウヌスを見たら、画面越しにジョンが大笑いする。
『あははは! 驚かれてるぞ、ファウヌス! 本当にお前は格好つけだな。親戚の子にもカッコいいって思われたいのか?』
「当たり前だろ。子どもには尊敬される大人でありたいもんだ」
『ふーん? まあ、お前はわざわざ格好つけなくても十分カッコいいさ』
「顔が?」
『違う。ちゃんと中身が』
リリムは、ずっと驚きっぱなしだ。
──ファウヌスは、思っていた以上にちゃんと人間と“友だち”をしていた。
自分の前で浮かべる表情と全然違う。
「……ところで、おにいさまのおしごとと言うと、エンジニア関連の……?」
『そうだよ。オレたちは今、新しいデータセンターの立ち上げに関わってる。といっても、ファウヌスはこれから1カ月ほど休みたいって話しだけどな?』
「……私のせいですか?」
「せいじゃないさ。奥さんの身内が困ってたら助ける。当たり前のことだろ?」
『そう、当たり前さ。そういうコトができるのがフリーランスのいいところ。……と言っても、オレでダメなところはチャット飛ばすから、できるだけ早めに回答してくれると助かる』
「わかってる。迷惑かけてすまないな」
『なに。ビジネスとしても悪くないからな。オレがPM、ファウヌスがサブなんて珍しい! しっかり頑張らせてもらうさ!』
ジョンはやる気に満ちているようだ。マリーのことでジョンに迷惑がかかったのなら申し訳ないし、マリーも気にしてしまうだろうが、そうでもないらしいことがわかって安堵する。
マリーはジョンに興味を持ったらしい。ファウヌスを押しのけて、ぐいとパソコンの画面に近付いた。
「ジョンさんは、どんなおしごとされているんですか?」
『そうだなぁ。エンジニアって言っても、もう今はほとんどが対人交渉かな。サーバがほしいって言ってるひとの話をよく聞いて、どれくらいの規模がいいかな、とか、どれくらいのスペックが必要かな、とか、どこに設置したら災害に遭ったときもデータが守れるかな、とか。そんなことを考えながら、どんな手順と金額でつくっていくか考えるしごと』
「なーんだ。ずっと設計してるわけじゃないんですね」
『そうだねえ。できるんならそうしてたいのがエンジニアだけど、もうそっちはかなりAIが補ってくれるから。マリーちゃんは、こういうしごとに興味あるんだ?』
「はい! 今は業務アプリをつくってます!」
『それは将来有望だなぁ。近くにファウヌスがいれば、教えてもらいたい放題じゃないか。そいつはやけに昔のコードにも詳しい、コンピュータ言語オタクだから』
コンピュータ言語どころか、全世界の言語オタクだ。知識オタクと言っても良い。今は最近進化の目覚ましいコンピュータ言語に目をつけているだけである。ファウヌスは面白そうなことがあればつまみ食いをして、気に入れば飽きるまでそれを学び続ける。昔からそうなのだ。ある意味で、悪魔らしくはある。
ジョンの勧めに、けれどマリーは顔をしかめた。その様子をファウヌスは悲しそうに眺めている。
「ええー、やです。おにいさまに借りをつくりたくありません」
『ファウヌス、嫌われてるなぁ。女の子に嫌われるなんて珍しい』
「うん……」
「ジョンさんは教えてくれないんですか? 私、ジョンさんから教えてもらいたいです!」
「マリー、いきなりなに言い出すの。失礼でしょ」
流石に注意したら、画面の中のジョンはまた大きく笑った。
『今すぐは無理だけど、案件の合間ならいいよ! かわいい子のお願いだからね!』
「やったー! ありがとうございます! 今度お礼をさせてください!」
『別にいいよ。オレが教えてあげて、必ずきみの役に立つかはわからない。役に立ったと思った時、その分ファウヌスにやさしくしてあげてくれ。それがオレへのお礼になる』
ウインクするジョンに、この場のみんなが目を丸くした。
……ジョン……こいつ、すごくいい奴だ……!
「ジョン……ありがとう」
『気にするな! 弟子を取るのが少し早くなっただけだ!』
「うん……さ、リリム。マリーとごはん食べててくれ。さすがに、そろそろしごとの話に戻る」
「うん。ジョンさん、僕からも、マリーのわがままを聞いてくれてありがとう」
『リリムくんも、なにかお願い事があったら言うといい。子どもってのは、わがままを言って良い唯一の時代なんだからな!』
リリムはあいまいに笑うしかなかった。リリムは見た目通りの子どもではない。
それに、悪魔に子ども時代は存在しない。
マリーの苗字はイザベラの出家前の実家から付けられています。
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