45 淫魔たちの食事事情
ファウヌスとマリエッタの自宅は、リヨンの8区にある古いアパートメントの2階だ。昔からファウヌスが拠点にしている部屋のひとつで、結婚を機に隣の部屋を買い取ったらしく少し広めの2LDKになっていた。
マリエッタは朝が早いようで、マリーも付き合って早々にふたりで眠ってしまった。マリーは飛行機移動に慣れているわけではないから、疲れたのだろう。
残された悪魔ふたりは、リビングでカンタンな夕食をつまむ。
いくらカンタンと言っても、ここはリヨンで、さらにファウヌスがいる。朝食の残りだというバケットに、ハーブ入りチーズソースをかけたセルヴェル・ド・カニュ。揚げたじゃがいもを玉ねぎ、白ワインで炒めたリヨネーズポテト、豚のリエット、チーズが並んだ。どれも素朴な味だけれど、びっくりするほどおいしい。
「……じいちゃんが、なんで『美味い食事で精気が補える』って言ってるのか、最近わかってきた気がする。女のひとの精気を体に入れなくなると、食事からの精気でも全然問題ないって気がつくっていうか……すごくおいしくないとダメだし、毎日食べないと足りなくなっちゃうけど……」
「お、わかるか? 俺たち淫魔は特に欲望に敏感だからな。
『美味いものを食べたい』という欲求には、知性がいるんだよ。ただ空腹を満たすためなら、味は二の次だからな。美食はさらに高次の欲求で、それを叶えたのが料理人たちのレシピなわけだ。選び抜かれた食材、手順、調味料……ただのエネルギー補給のためのものじゃない、『より良いものを手に入れたい』という人間の欲望と知性が詰まってる。
俺たち悪魔もそうだろ。人間の欲望と感情──情報を食べている。大きくて複雑であるほど美味くて食べ応えがあると感じる。淫魔にとっては人間の体や感情はその最たるものだけど、料理だって十分、人間の業を背負ってる」
なんかいきなり難しいこと言い出したな、この悪魔。
多分、悪魔がおいしいもので腹がふくれる不思議を、ファウヌスなりに考えてみたんだろう。でも今まで誰にも言うひとがいなかったのかもしれない。ファウヌスは人間の友人は多いけれど、悪魔の友人は少ない。
話に付き合ってあげられなくて悪いけれど、リリムはファウヌスほど料理や美食に人生を捧げてはいなかった。
「じいちゃん、このじゃがいもおいしい。あとで修道院に送って?」
「いいけど……あ、こらワイン飲むのか?」
「僕は体が子どもなだけで、もうとーーーーーーーーっくの昔に大人だから!」
「マリエッタやマリーの前ではやめてくれよ。俺が叱られる」
「わかってるよ。僕もマリーの前では飲まないし。マリーは僕が食べてるものはなんでもひと口もらえると思ってるから」
リリムが飲んだら、マリーはきっと興味を持って自分も飲みたいと言い出すに決まっている。でもマリーは本当に子どもだし、まだまだ女性として体が成長していく段階だ。ちゃんと体が出来上がるまではぜったいにお酒なんか飲まさない!
「……リリムは、ずいぶんマリーのこと気に入ったんだな」
「うん。友だちなんだ」
思えば、リリムに異性の友人なんてこれまでひとりだっていなかった。当然だろう。淫魔なのだ。女性はひとり残らず『食事』の対象だ。リリムはあまり好きではないけれど、成り行きで友人のような関係のまま体を重ねたことだってある。けれど、結局そういうのは長続きしない。長続きしない女を、リリムはあまり好きになれなかった。
「マリーとはもう5年も友だちなんだよ。僕に甘えてくれるのがかわいい。猫を飼ってる気分だ。お腹見せてお昼寝している姿見てたら、うれしくてずっと眺めてられる」
実際にマリーがお腹出して寝てたら毛布を持ってきてあげるし、起きたらお説教だけれど。でもそれは風邪をひいてほしくないからだし、辛い思いをしてほしくないからだ。マリーが辛そうだとリリムも辛い。
「じゃあ、ずっとマリーと一緒にいるのか?」
「うーん、そうしたいけど……孤児院には18歳までしかいられないって」
「ああ」
ファウヌスもなるほど、とうなずいてワインを舐めた。
「マリーはどうするって?」
「まだ聞いてない。でも、一緒にいるか聞いたら、多分付いてくると思う」
「はは。すごい自信だな?」
「マリーだって僕のこと大好きだからね」
だから、一緒に暮らそう、と言ったら喜んで付いて来てくれると思う。
ただ、それは友情からだ。イザベラの思惑とは違うので、なんとなく反対されそうな気がした。正確には「一緒に暮らすなら筋を通せ」とごねられる。つまり、ファウヌスとマリエッタのように結婚しろということだ。
リリムは、それはちょっとどうかと思っている。
「マリーは僕のこと大好きだし、僕だってマリーのことは好きだけど、恋愛とは違うと思うんだよね。マリーに僕より大好きな異性が現れた時、僕がいたらマリーがかわいそうじゃないか」
「うーん。まあ、そうなんだけど。お前、マリーへの『好き』が恋愛と違うっていうのは、どういう意味?」
「え? だってマリーのこと『食べたい』って思わないもん」
性的な意味でも、悪魔としても、マリーのことは本当は食べたくない。
マリーの精気はとてもおいしいけれど、こんなにおいしいのに慣れたらほかは食べられなくなるだろうな、という予感がある。実際、もうマリー以外の精気にはそんなに興味は持てなくなっていた。それに、自分の存在はマリーの教育にも悪い。
マリーは世界で一番かわいい妖精のような女の子なのだ。穢してなるものか。
「……リリムは、もしかして『食べたい』か『食べたくない』かで恋愛を判断してるのか?」
「それ以外に判断しようがないでしょ。僕、淫魔だよ。恋愛でごはん食べてるんだよ?」
「……食べたくないのに、一緒にいたいのか?」
「うん」
あれ。そう言われてみれば、ちょっとおかしいな。でも友だちだからかな。
マリーは一生食べられなくてもいいから、一緒にいたい。
「ふーん。そうか……悪魔って、本当に情緒面の発達が遅いんだな。それとも、俺の教育が悪かったのか? お前と一緒にいたころは、確かに俺自身も人間的な情緒の理解は浅かったから……」
「なんの話?」
豚のリエットをバケットにつけてかじる。コップに少しだけ入れた赤ワインを飲むと、豚の脂の旨味が口の中で混じって余韻が後を引いた。
「ねえじいちゃん。これ、少し残して、明日マリーに食べさせてもいい? 朝ごはんにする」
「まだあるから、食べきってもいいぞ。それに、明日はマリーのために買ったパン・オ・ショコラもあるから」
「あ、そっか」
おいしいものはマリーとシェアする癖がついてた。
思えば、こうして別々のタイミングで寝るのも久しぶりだった。
……なんだか……。
「…………」
「リリム〜」
ふいに名前を呼ばれて、がばりと視線を上げた。
マリエッタの部屋から、マリーが出てきていた。眠そうに目をこすっている。
「マリー? どうしたの? お手洗い?」
「お腹空きました……」
「ちょっと匂いがしたかな? マリーは敏感だな」
ファウヌスが笑ってマリーを手招きした。マリーは寝ぼけているのか、毛嫌いしているファウヌスの手招きにも素直に応じた。リリムは慌てて手に持ったコップをシンクに持っていって、ワインを捨てる。それから、きっとマリエッタのだろう、オレンジジュースを2人分コップに注いだ。
リリムの隣に腰掛けたマリーにジュースを出して、様子を確認する。まだうとうとしていて眠そうだ。たしかにマリエッタとマリーの夕食は早かったので、軽い食事を食べたらまた眠るだろう。
「おいもを揚げたいいにおい……」
「これね。リヨネーズポテト。フランスのじゃがいもはねっとりしてて甘いから、素揚げだけでもおいしいよ。あとこれ、すごくおいしかった。マリーと食べたいと思ってたんだよ。豚のリエット。バケットは二つまでね。お腹いっぱいになっても眠れないから」
「んー」
マリーは寝ぼけた様子のまま、リリムが用意した食事を口に運んだ。
「ふわぁ、このじゃがいもおいしいです!」
「うん、おいしいね」
「このリエットも大好きな味です!」
「そうだと思った」
「リリムは、私と一緒に食べたかったって言ってましたね。今はもっとおいしいんじゃないですか?」
「うーん、そうかな? そうかも」
「んふふー、好きなひとと一緒に食べたら、おいしく感じますよねえ」
「そうだな。俺もマリエッタと食事をしていると、泥でもおいしく感じると思う」
「そこの淫魔は黙っててください」
どうやら少しずつ覚醒してきたらしい。完全に覚醒してしまうと眠れなくなってしまうだろう。
「ほら、食べたら歯を磨いて寝なよ。明日もいつも通りの時間に起きるんだから」
「んー、リリムも一緒に寝てください」
「ダメだよ。今日は義姉ちゃんが一緒に寝てるだろ」
「3人で寝たらいいです」
「絶対ダメ。マリエッタかリリムか、どっちか選ぶんだ」
珍しくファウヌスが強い声を出した。
それはそう。いくら子どもの姿をしていても、リリムは男で淫魔だった。
「ええー」
「ダメったらダメ。マリエッタは俺の奥さんだから、リリムとは一緒に寝られないんだ」
「……はーい……」
マリーは諦めたらしく、一度しょんぼりとうなずいた。こういうところは、ファウヌスは強い。リリムならついうっかり「今日だけだからね」と折れていただろう。
マリーはしょんぼりしたまま、リリムの首筋に抱きついてきた。花のようなマリーの香りが全身を包む。
「じゃあ、明日はリリムと寝ます……」
「ええ? いいの? 義姉ちゃんとは滅多に寝られないんだよ?」
「そうなんですけど……なんか、落ち着かなくて……」
そ、そうか。このマリーでも、姉離れすることがあるのか。
甘える先がリリムに変わっただけの気がしないでもないけれど、なんとなく悪い気はしない。
「今日から交代で寝ます……」
「いいとこ取りかぁ」
「ダメですか?」
「いいよ」
「リリム、大好き」
マリーはリリムの頬にちゅっと口付けてから、洗面所にかけていった。歯を磨いて寝るのだろう。
じっと様子を見ていたファウヌスが、面白そうに笑っている。
「本当に可愛がってるんだな」
「そう言ってるでしょ」
「自覚した時の反動がすごそう」
自覚ってなに? さっきから、ちゃんとマリーのことは世界一かわいくて大好きって言ってるでしょ!
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