43 ファウヌスとマリエッタ
スペインのマドリード空港から、フランスのサン=テグジュペリ空港までおよそ3時間半。
混雑した入国審査ゲートの出口でマリーとリリムを出迎えたのは、マリエッタとファウヌスだった。
「おねえさま!」
「マリー、大きくなりましたね!」
マリーが全力で飛びついたのを、義姉はなんなく受け止めた。すごい。リリムはあれを受け止める時、いまだに尻もちを着いてしまう。
マリエッタはマリーと本当によく似ていて、二人揃うとかがやくばかりの美貌を持った姉妹に見えた。同じ遺伝子なので、当たり前といえばそうなのかもしれないけれど。
「ファウヌスが選ぶお洋服はどれも少し大きいんじゃないかと思ってましたけど、ぴったりですね! さすがファウヌスです」
「む。贈ってくれたお洋服、おにいさまが選んでたんですか?」
「ファウヌスはわたしなんかよりもずっとセンスがいいですからね」
たしかに、ファウヌスは衣装に興味がないわりにセンスが良い。目が肥えているのだろう。おそらく、マリエッタが身に付けている白いシャツと裾の長い濃紺のスカートもファウヌスが選んだに違いない。露出も少ないし、一歩間違えると古臭い感じがしそうなのに、マリエッタの体にぴったりあっていてクラシカルで上品な印象を受ける。
マリーが着ているワンピースは空色をしていて、こちらも丈が長い。修道院の衣装に近いものをあえて選んでいるのだろうと思う。
ちなみに、贈ってきたのはファウヌスとマリエッタだが、今日の衣装を選んだのはリリムだ。マリーを一番かわいくできるのは自分なので。
「リリム、ひさしぶり。お前は小さくなったな」
「まあね。今はマリーに合わせてるから」
リリムに近寄ってきたファウヌスが、なにも言わずにひとつ荷物を持ってくれた。リリムの分で、さほど重くはないが、こういうことを自然にできる悪魔はやっぱり珍しい。ちなみに、リリムはマリーの荷物も持っていて、そちらはリリムが預かったままだ。
ファウヌスは荷物を持ってから、膝をかがめてマリーの視線に合わせる。
「マリー、今日からしばらくはよろしくな。俺とも仲良くしてくれるとうれしい」
「やです」
「マリー」
「私、おにいさま嫌いなんで!」
マリーがぷいと顔を背けて、マリエッタの手を引く。義姉もファウヌスも苦笑を浮かべた。マリエッタはそのままマリーに引きずられて地下鉄乗り場の方面へ歩いて行ってしまう。リリムはファウヌスと並んで、二人の背中をゆっくりと追いかけた。
「……しょうがないよな。マリーには俺がマリエッタを盗っていったようにしか見えなかっただろうし」
「いきなり修道院出ていくとか、義姉ちゃんもじいちゃんも思い切ったことしたよね」
「恋の勢いってすごいよな」
ファウヌスは赤い瞳に柔らかな色を乗せて、前を行くマリエッタを見つめる。
数多の女を恋に堕としてきた淫魔の言葉とも思えない。まるで十代の青臭い少年みたいだ。
マリエッタに関することだけ、まるでファウヌスが別人に見える。たしかに、恋はひとを変えるらしい。
僕にはよくわかんないな。
「さて、しばらくは元気なお姫さまに付き合うか」
「うん。マリーは本当に元気だから、覚悟してね」
「うーん。子育て時代を思い出すなぁ」
地下鉄でリヨン駅まで向かい、途中でカフェに立ち寄った。
リリムもマリーも、機内食で昼食を済ませただけだったので、ファウヌスが寄り道を提案してくれたのだ。
深いグリーンの看板を掲げたシックな外観のカフェは、老舗なのか地元客がくつろいでいる。店内は満席だったので石畳の上のテラス席に座り、マリーは運ばれてきたカヌレとドリンクに歓声を上げた。
「リリム、リリム! こ、このショコラ・ショーって飲み物、神さまの飲み物では⁈ チョコレートそのままの味ですよ!」
「あれ、ショコラ・ショーははじめてだっけ?」
ショコラ・ショーは温かいチョコレートドリンクだ。濃厚で、ほとんど液体のチョコレートと言っていい。どろりとしていて甘さはあまりなく、砂糖や生クリームで甘味を調整する。マリーが嫌いなわけがなかった。
「気に入った?」
「はい! チュロスのチョコレートソースみたいですね! 毎日飲みます!」
「体に良くないから週末だけね」
そんな風にいつも通りマリーと会話をしていたら、様子を見ていたマリエッタが、なぜか手を叩いて喜んだ。
「リリムくんとマリーは、すごく仲良しなんですね!」
マリエッタが朗らかに笑う。義姉はマリーとそっくりだけれど、つくる表情は全く違った。マリエッタはどこかおっとりしていて、結婚して5年も経つ人妻なのに未だに世間知らずのお嬢さんに見える。
肩にかかるくらいに切り揃えられた黒髪はていねいに手入れがされていて、元修道女とは思えないかがやきを放っていた。きっとファウヌスがいろいろと面倒を見ているのだろう。
「修道院は悪い場所ではありませんでしたけれど、大人ばかりですし、わたしがいなくなったらさみしい思いをするだろうって心配してたんです」
「さみしかったに決まってます! あんなに急に修道院を出ちゃうなんて……おにいさま、あとでツラ貸してください」
「……手加減してくれよな……」
淫魔の体は人間と変わらない。大変長生きなファウヌスとて、マリーに殴られたら普通に吹っ飛ぶ。多分、義姉に殴られたら死ぬ。そういう力関係だった。
マリーは姉を連れ去ったファウヌスがいつまで経っても気に入らないので、ちょっとだけ注意して見ておかなければいけない。
「でもね、マリー。じいちゃんが義姉ちゃんと出会ったから、僕はエスコリアルの修道院に行ったんだよ」
「イザベラ目当てでしたけど」
「でも、マリーと友だちになったよ」
「……たしかに、リリムがいてくれたから、寂しいのはちょっとの間だけでした」
「そうでしょ? もうさみしくないよね」
そう言ったら、マリーは難しい顔をしたあと、一度うなずいた。傍で見ていた義姉もうれしそうだ。
「リリムくん、マリーと一緒にいてくれてありがとうございます」
「気にしないで、義姉ちゃん。僕にとってもマリーは友だちだしね」
「んふふー! リリムは私が大好きなんですよ! このバレッタもリリムがくれました!」
「へえ? どれどれ?」
マリーのバレッタに興味を持ったらしいファウヌスが、わざわざ立ち上がってマリーの背後に回った。直接髪には触れないように、バレッタの彫り物の部分だけ指先でなぞる。
「護符か。よくできてる。でもリリムがあげたにしては、少し安っぽいな?」
「ふふーんだ! おにいさまはてんでわかってませんね。これはリリムがちゃんとバイトして稼いだお金で買ってくれたんですよ! カフェで売り子をした、まっとうなお金です!」
「ああ、なるほど。それは貴重だ。いいプレゼントだな」
ファウヌスが合点が入ったと笑った。
……ファウヌスにそう言われると、ちょっと恥ずかしい。
「マリー。せっかく休暇でリヨンに来たんだから、たくさん食べて遊んで帰るといい。マリエッタは今日と明日はしごとがあるからあまり構えないかもしれないけど、俺の時間は空けているから」
「ええー? おねえさまはおしごとなんですか?」
「はい。今はわたし、パン屋さんでおしごとをしてるんですよ。明日、わたしが焼いたパンを持ってきてあげます。修道院にいたころよりずいぶん腕を上げたんですよ!」
「わぁ! 私、おねえさまのつくったパン大好きです! 約束ですよ!」
「もちろん」
マリーは満面の笑みを浮かべていて、かなりのご機嫌度だとうかがえる。本当に姉が大好きなんだな。イザベラとマリエッタとマリーを見ていると、家族というのはあたたかなものなんだろうと思える。
リリムはなんとなくファウヌスを見た。
マリエッタの隣に座ってカフェを口に運ぶ仕草は、男の自分から見ても色気を感じる。
血管の浮いた大きな手。太いわりに形の整った長い指。短い爪は淫魔の嗜みだと教わったっけ。
「なに?」
「うーん。僕とじいちゃんは、やっぱり違うなって」
悪魔に家族はいない。やっぱりファウヌスは、育て親で自分の師ではあるけれど、家族と言われると少し違う。
ひとりごとのようにつぶやいたので、きっとファウヌスには意味がわからないはずだ。今も小さな頭を傾げている。さらさらと銀の髪が頬の近くで揺れていた。
「なんでもないよ」
「……まあ、男親と息子の関係は、女系家庭とはまた違うものだと思う」
──驚いた。
リリムがなにを考えていたのか、わかったらしい。
「さすが、『森の大賢者』」
「違う。お前とは古い付き合いだからだ」
ファウヌスは笑って、リリムの頭をなでてきた。
ファウヌスにそんなことをされたのは、はじめてだった。
「……じいちゃん、僕の見た目に引きずられてるの?」
「そうかも。あと、俺もお嫁さんを迎えて少し変わったのかもしれないな」
ファウヌスはおどけて言ったけれど、それもそうかとリリムはうなずいた。
「もちろん、お前も変わったよ。自覚があるかは知らないが」
「ええ? どうかな? そういうの、自分ではよくわからないけど」
「ところで、おねえさま、おにいさま」
いつの間にかショコラ・ショーとカヌレを食べ終わったマリーが、水を口に含みながら質問してきた。
「私たちって、いつまでリヨンにいるんですか?」
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