42 制限時間
新章です。
「あら? 言っていませんでしたか? 貴方は肉体年齢で18歳を迎えたら、修道院から出ていってもらうことになります」
エスコリアル修道院の最奥にある尼僧院。そのさらに奥に配された執務室で、イザベラは液晶ディスプレイに囲まれながら涼しい表情でそう言った。
リリムの頭の中が真っ白になる。
「……なんで……」
「当然でしょう? あくまでも、貴方は対外的には孤児として預かっているんです。18歳で成人になれば、孤児院からは出てもらわねば困ります」
「……じゃ、マリーもあの館から出るの……?」
「ええ。……ですが、マリーが18歳になった時、シスターの道を選ぶのなら、尼僧院へ部屋を移すだけです。リリムがここに残るなら、修道士としての修行に入るしかありません」
当然だ。ここは修道院で、神にその身を捧げた者たちが集う場所である。
そして、そんなことを悪魔であるリリムができるわけがなかった。
──リリムとこうして一緒にいられるの、あとちょっとだけなんですし!
アイツ、なんでこんな大事なことけろっとした顔で言えるんだ?! 僕と離れ離れになってもいいのか?!
「……なので、マリーを連れていきたいのであれば、あと3年でなんとかなさい」
「は? いえ、別に連れて行きたいとかは……」
思わずイザベラの顔を見上げると、いつもの慈愛に満ちた銀のまなざしがリリムを貫く。
──いや。いやいやいやいや。
なにを「私はちゃんとわかっていますよ」みたいな顔をしてるんだ⁈
「……僕は貴女の愛を希ってここに滞在しているんですよ? マリーのことは、別に……」
「あら、そうですか。まあ、どちらにせよ、期限はあと3年です。私を誘惑できるならしてみてもいいですし、マリーを誘惑できるならしてみてもいいですよ」
「……僕、悪魔なんですけど……?」
やっぱり、イザベラはずっと諦めていないのだ。
リリムがマリーを獲物にすることを。
淫魔は自分なりの食事にこだわる。
食い散らかす者。相手を固定するもの。できるだけ残虐な手段を好む者。
リリムはできるだけ相手を固定して、情緒的な交流と経済的な安定を求める。人間からすると、悪魔にしては穏便な性質だった。
イザベラはファウヌスの教え子だと見込んだリリムに、マリーを食わせようとしている。
そうして、マリーの身にいずれ訪れる『処女受胎』の運命から逃がそうとしていた。
──とんでもないことである。
「僕は子どもに手を出したりしません」
「でも、もう貴方はずいぶんマリーに肩入れしていますね? マリーが困っていたら、手を貸してあげるでしょう?」
「それは……」
マリーは友人だ。生意気なところもあるけれど、素直な教え子でもある。毎日一緒に過ごしていれば情も湧いた。かわいくないわけがない。
でもそれは、友人として、教え子としてであって、性的な対象──つまり、食事相手としてではない。
それなのに、言い淀むリリムを見たイザベラは珍しいほどの明るい笑みを浮かべた。
「それで十分です。貴方がマリーの望まない受胎を阻んでくれるだけで、この修道院へ迎えた甲斐があるというものです」
「……でも、あと3年ですよね?」
「それは仕方がありません。一般常識的にもそれが限界です。私の力が及ばない部分です。
……この話はここまでにしておきましょう。それで、マリーの初調査も問題はありませんでしたか?」
「……マリーの報告書の通りです。僕も目を通しましたけれど、付け足すことはありません。もしヨセフ家から記憶削除の依頼が来たらマリーにつないであげてください。それは、彼女が償うべき罪と罰です」
「……ええ。貴方の言う通りです。そのようにしましょう」
イザベラは、リリムの考えを否定しなかった。彼女もわかっているのだ。マリーの行いは善良ではあるが、かえって人間を苦しめるだけだということを。
あれは、「悪魔の誘惑」にあたるのだと。
「……リリム。悪魔である貴方が、今回のマリーの発言を許し難く思うのは当然です。ですが、それもまた、ヨセフ家に与えられた試練なのでしょう」
「僕は必要以上の試練を人間に課す必然を感じていない。それで死んでしまうことがあるのも、人間だからです。僕は悪魔だ。だから、人間の弱さを否定しない」
「……ええ。そうですね」
イザベラはそっと瞳を閉じた。
彼女はマリーより、悪魔がどういった存在なのか理解しているのだろう。
悪魔は人間に罪を犯せとそそのかす。
それと同時に、悪魔は人間に、生きていてほしいと願う。希望を抱いて罪と戦ってほしいと希う。
それは、そういう人間の精気こそが、悪魔にとって最上の美味だからだ。
悪魔は存在自体が罪深い。
「それと……貴女の同期だと言うシスターと会いました」
「あら、そうですか。世界は狭いですね。名前は確認しましたか?」
「ええ。シスター・メアリ、と。日本人のシスターなんて珍しいですね」
その瞬間、イザベラの瞳が驚きに見開いた。薄い唇が引き結ばれる。明らかに普段と異なる様子に、リリムも思わず動揺してしまった。
「……なにか、問題があった?」
「……メアリは、マリーとも会話をしましたか?」
「はい。『岩のドーム』の解説をしてくれました」
イザベラは浅く息を吐き出して、手元のノートパソコンでなにかを打ち込みはじめた。数単語も打って、改めてリリムに向き直る。
「──すぐにマリーを連れて、マリエッタのところへ行きなさい」
「え?」
「ファウヌスには今連絡しました。マリーには休暇と伝えておけば喜んで行きます。貴方たちは……ファウヌスが良いと言うまで帰ってきてはいけません」
どうしてファウヌス? そこはマリエッタじゃないのか?
イザベラはいつも通り冷静そうな表情をしているが、銀の瞳が警戒するような色を帯びている。
「シスター・メアリは洗礼名です。……その女の本名は、マリア・イワサキ」
「えっと、どこかで聞いたことがあるような……?」
あれはずいぶん前、ソフィアが言っていた──
「彼女は現在、『グノーシス調査機関』科学調査班に所属している研究者です。──現在の『マリエッタ計画』のリーダーであり、大口出資者になります」
「……それって……」
「別に、あの女がついにマリーを直接見に来ただけです。さして深い意味はないかもしれません。
ですが……念のためしばらくここを離れていてください。ここはあの女の影響が強過ぎますから」
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