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アシェルの母親サロメはひとならざる力でマリーの手を振り解き、リビングの出入り口まで跳躍して距離を取った。
マリーも、未だ横たわっているリリムとアシェルを背に庇う。
「サロメさんから離れなさい。精霊シェイデム」
マリーの目は、魂を見分ける。
──あれは、サロメの魂ではない。
澱んだ、別の存在が覆い被さっている。
精霊シェイデムは、ひとの欲望を受けて発生する邪悪な精霊だ。甘言を重ねてひとを破滅の道へと誘い、最終的には肉体を支配してしまう。
だが、シェイデムはサロメの姿で涼しい顔をして見せた。
「……精霊? なんのことかしら。それより、貴女たちは誰? 私のアシェルから今すぐ離れてちょうだい!」
ヒステリックな声は、夢で聴いた甘ったるい声を発する女性と同一人物には思えない。大きな瞳は血走っていて、瞬きひとつしなかった。
「ヨセフから話を聞いているでしょう? カトリック教会から派遣されたシスター見習いとその助手です」
「会わないと返事をしたはずよ」
「アシェルのために必要だと判断しました」
「アシェルのことは私が判断するわ!」
アシェルのことに過剰に反応する。
今にも飛びかかってきそうだ。それをしないのは──怯んでいるからだ。
マリーはバレッタはもちろん、地味なワンピースの下にはロザリオを、そして隠しポケットのあらゆる部分に聖水が仕込んである。厳重な結界が張られている状態で、対悪魔の準備は完璧だった。
「……シェイデム。目をつけた相手が悪かったね。聖職者の伴侶なんて、人間に狩ってくれと言ってるようなものでしょ?」
目を覚ましたらしいリリムが、上半身を起こしながらそう言った。
サロメが憎々しげにリリムを睨む。
「……どういうつもりですか、淫魔リリム。人間の味方でもする気ですか?」
この悪霊、どうやらリリムのことを知っているらしい。マリーにはリリムが悪魔の間でどれくらい知名度がある存在なのか知らないが、結構有名だったりするんだろうか。
シェイデムはサロメのふりをするのを止めたらしく、より攻撃的な瞳で睨みつけてきた。リリムには少しも臆する様子はない。
「僕は彼女と彼女の母親の味方をしているだけだよ。友人なんでね」
「なら、そこの男児はいただきます。この人間にとって、彼は非常に大事な存在なので」
シェイデムは瞳を三日月に歪めた。リリムが肩をすくめる。
「やれやれ。いつからお前たちは淫魔の真似事なんてはじめたんだ?」
「この女の欲は、性欲ではありませんよ。
──神との約束を守る善き民でありたい。愛する夫との家庭を守る善き妻でありたい。夫が望む家庭を築く善き母でありたい。
この女が望むのは、『善き人間』であることです。私はそれを手助けしているに過ぎません」
「それがなんで自分の息子に性的虐待を行うことになるんだ。お前、その女になんて言ってそそのかしたの?」
「彼女の『神』とやらが望んだのは、産み、増やすこと。そして、彼女自身が望んだのは、『愛する夫の血をより多く残すこと』。
──それなら、息子を使えばいいでしょう?
だって、夫の血は確実に息子に流れているのだから」
──そう。いつもリリムと一緒にいて忘れそうになるけれど。
これが。これこそが。
悪魔。
善であろうとする人間をそそのかし、地獄へ堕とそうとする存在。
「彼女の望みは叶えられます。彼女は己の望みを果たせるでしょう」
精霊は、満足そうに腹をなでて口端を歪めた。
「貴方の言い分はわかりました。精霊シェイデム」
マリーは一歩前へ出て、シェイデムに立ち塞がる。
「私はマリー。悪魔祓いのマリエッタ。『グノーシス調査機関』シスター・イザベラの命により、これからあなたの存在を滅します。
──ただ、黙ってこの世から消えなさい。神の慈悲などないと知れ」
マリーは懐から聖水を取り出し、自分とリリムたちの周囲に振り撒く。
「いと高き方のもとに身を寄せて隠れる人は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう、『我が避けどころ、我が砦、我が信頼する神』と」
聖言に反応して、聖水が光を放つ。周囲に結界を張った。これでシェイデムはアシェルに近付けない。
「あはははは! 愚かなひとの子! 神に慈悲を乞う悪魔などいるものか! そこの淫魔も同じだぞ、人間!」
高く笑う精霊に、一歩で近づいて左頬に拳を入れた。
手加減したので、玄関までサロメの体が吹き飛ぶ。
「黙れと言いました」
転がったサロメの体は、完全に意識がなくなったはずだ。けれど、サロメは開いた瞳孔をこちらに向けてくる。
肉体だけを攻撃するのでは、実態を持たない精霊は倒せない。
「マリー、ギリギリまでアレは使っちゃダメだよ」
「わかってます」
背後からリリムの声が飛んでくる。
まだ『集中』は使っていない。さっきのはただのイザベラと姉仕込みの体術だ。
「何秒?」
「3秒まで。大丈夫?」
「余裕です」
『淫魔リリム! この裏切り者め!』
「生憎、悪魔に『裏切り』なんて概念はないよ。
──未熟な精霊ごときが悪魔に意見するなんて千年早い。一度消滅して出直しておいで」
シェイデムが嫌そうに顔を歪めて、一瞬で家から飛び出した。悪魔祓いと悪魔のチームに、サロメの体では勝てないと悟ったのだろう。
逃しません!
マリーも追いかけて外に飛び出す。
シェイデムはかなりサロメの体を侵蝕しているらしい。常人ではありえないほどの速さで、マリーの目では追いかけるのもやっとだ。
ちょうど周辺は住宅街で、歩道よりも車道の方が広い。シェイデムは車道を走る自家用車のルーフを伝って街を駆けた。
マリーも同じようにルーフを伝って精霊を追いかける。向かう先は、西イスラエルの中心地のようだ。ひとが多い場所に紛れ込まれると探す手間が増える。その前に捕まえたい。
だが、なかなか距離は縮まらなかった。向こうはそれこそ、母親の体なんてどうなってもいいから、かなり限界まで筋肉を使っているのだろう。このまま走り続けるだけでも母親の体にダメージが入り続ける。それはよくない。
母親を案じる気持ちと入れ替わりに、先ほど共有された『夢』を思い出す。
──肌がぞわぞわした。生理的嫌悪感が抜けない。知らずぎゅっと拳に力が入る。
……あの行為は、きっとシェイデムの誘惑があってのことだろうから。
だから、きっと、あの母親が罪を償う機会はあるはずだ。
胸の内で繰り返して、体から余計な力を解く。
そう。罪を裁くのは、私のしごとじゃない。
マリー、はじめての正式な対悪魔戦です。
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