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虐待を感じさせる表現があります。心に余裕がない方はご注意ください。
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あたりは真っ暗で、なにも見えない。
なにも聞こえずに静まり返っている。自分の息遣いがはっきり聞こえるほどの静寂は、世界にひとりぼっちで取り残されている気がして少し怖い。リリムはどこだろう?
意識としては歩いているが、音もせず、景色も変わらなくて、動作という手応えがまるでない。
なるほど。確かにこの手応えのなさは夢かも。
ふと、あたたかな気配がした。けれど、その感覚はマリーのものではない。誰か別のひとのものだ。
そう頭では理解しているけれど、体感としては自分ごとに思える。これが、相手の夢に入るということなのだろう。
『アシェル、アシェル……』
聞いたことのない、女のひとの声だ。大人だけれど、イザベラよりは若い。マリエッタよりは歳上くらいか。
とても優しそうに聞こえるけれど、どこか苦く感じるような濃い甘さを含んでいる。恋人とかいたら、こんな声になるのかもしれない。
『ああ、アシェル……私の愛しい子……』
私の子?
じゃあ、この声はアシェルの母親のものなのだろうか。未だに暗闇の中で声だけが聞こえるので、声の主の顔や表情はわからない。
そ、そうか。お母さんでもこういう声を子どもに向けるのか。
ネットでは「息子は小さな恋人なの」とか言う母親の書き込みを見ることもあるし、さすがに一般的とは思わないけれど、こういうご家庭もあるのかも。イザベラは絶対絶対、こんなこと言わないけど。
体を包んでいた温もりはそのまま、首筋や手足にこそばゆい感覚が這っていく。
マリーの視界は暗いままだが、もしかすると、これはアシェルが目を閉ざしているからかもしれない。眠っていた時の感覚や記憶を、夢から掘り起こしているのだろうか。
『アシェル、アシェル……お母さんが役立たずなのかも。ごめんね。きょうだいをつくってあげられなくて、ごめんね』
母親の声は甘いのに深い哀しみがにじんでいて、彼女が傷ついているらしいことがわかる。
でも、なにに?
『神さまの教えを守れなくて、ごめんね。お母さんは、すごく悪いひと……
──罪人、なの……
でも、こうしたら、きっと、うまくいくから……』
体に、またぞわりとした感覚が張っていく。下腹部にそれは集中していて、さすがのマリーもその感覚がなんなのかわかった。
ていねいに過敏な肌を這っていく、柔らかく生温かな感覚。指なのか、あるいはもっと別のなにかなのか。執拗な下腹部への刺激に全身の感覚がぞわぞわして、未知の状況に頭の中が混乱する。
自分の知らない強い感覚に、頭の中が何度も真っ白になった。
やだ。こわい。
子どものころ『ごはん』中にリリムが暴走した時より、ずっとずっとこわい。自分は今どんな状況なんだろう? 息が上がってうまく呼吸ができない。
ダメだ。これ以上はちょっと吐き気がする。
けれどアシェルの夢とリリムを通じてつながったマリーには、その夢を拒否する権利がない。アシェルは眠っているせいか、はたまたマリーたちの方が無意識にまで潜ってしまったからか、彼の意識から反応はない。
そもそも、アシェルはこの記憶から逃れることはできないのだ。
だって、これは夢だけど、夢じゃない。きっとアシェル自身の身に起こったことだ。
──マリーがこんなに逃げ出したいと思っていることから、彼は逃げられなかったのだ。
瞳から涙があふれてくる。アシェルはこんなに怖くて気持ち悪いこと、記憶の奥深くに閉じ込めてしまうしかできないんだ。
どうして? アシェルはすごく良い子だったのに。どうしてこんなめに遭わないといけないの?
「マリー、泣いてるの?」
高さの混じる耳に馴染んだ声がかけられた。
いつの間にか、暗闇にリリムが立っていた。
マリーの肩を抱いて、頭をなでてくれる。
「リリム、気持ち悪い……」
「……ごめん。僕が迂闊だった。こんなコトだとは思ってなかったんだ。もう止める?」
マリーは首を横に振った。
「……アシェルはこれを受け止めてたんですよね?」
「……うん。でも、受け止めきれずに異常行動として症状が出るようになったんだろう。眠っていても、意識ってのはあるものだから」
「アシェルは、お母さんになにされてるか気がついてるんですね?」
「……多分……」
「どうして、こんな……」
「……本当の理由がどこにあるのか、僕たちが立ち入ることはできないけど……もしかしたら、本人の言葉がヒントかもね」
──神さまの教えを守れなくて、ごめんね。
「……ユダヤは『産み育てるべし』の言葉通りに歴史を刻んできた。ユダヤ教正統派の家のリビングが広いのも、大家族が集まるためのものだよ。けど、この家の子どもはアシェルひとりだ。……神の教えを守れなくても、罪なんかじゃないのにね」
そこでリリムが視線を上げた。上を見ているけれど、別に上になにがあるわけではないだろう。ここはアシェルの深層意識で、マリーとリリムはその意識に滑り込んだウイルス菌のようなものだ。
「……来たな。マリー、起きて!」
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急速に意識が覚醒する。
体が自然と殺気に反応した。訓練通り。
リリムの胸に今にも刺さりそうだった包丁を、それを振り下ろす手首をつかんで止める。血走ったダークブラウンの瞳が、射殺さんばかりの勢いでこちらを睨み付けた。
「……私のアシェルから、離れなさい……ッ!」
血走った目をした女性は、黒い髪を肩まで垂らした、濃い肌色の整った顔立ちをしていた。確かにアシェルの面影がある。
彼女が、アシェルの母親。サロメ。
──そして。
「誘惑の精霊・シェイデム。この女性から今すぐ離れなさい」
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