39
「私は私のしごとをするだけです」
マリーは、意識を切り替える。
目の前でぱちりぱちりと小さな火花が散る。
周囲の音が遠くなる。
目の前のことしか見えなくなる。
呼吸も時間も止まったような感覚。
世界でただひとり、自分だけが動いている。
世界でただひとり、自分だけが存在している。
自由な世界で、私は私だけになる。
全て、私の思い通りになる──
集中
足を踏み込む。足場にしていた車のルーフが割れた。跳躍。およそ人類には不可能かと思われるようなスピードと距離を跳ぶ。
すぐにシェイデムの背中を捉えた。
狂ったような悲鳴を上げるシェイデムの頭蓋を片手でつかみ、すぐ傍にあった工事現場の地面に引き倒す。シェイデムの体が地面にめりこんで、泥の大地が割れた。
『ぐ、あァ……ッ!』
シェイデムの悲鳴もどこか遠い。
続けてつかんだ頭蓋に聖水を垂らす。シェイデムの魂が焼ける気配がした。
『ああアアあああァああああぁあア゙』
「恵みに満ちたマリアよ、主はあなたと共におられます。あなたは女性の中で祝福され、あなたの胎内の子であるイエスは祝福されています」
聖言によって、母親とシェイデムの魂が分離する。肉体から黒い影のようなものが現れた。
マリーはそれを無造作につかむ。
『あああああああ……もう少し……もうすこしで……体が得られたのに……ッ!』
「神の母である聖マリアよ、罪人である私たちのために、今も臨終の時にもお祈りください。アーメン」
マリーが影に少し力を入れると、それは本当に呆気なく、塵となってはらはらと音もなく消えていった。
「…………」
目の前では、まだぱちぱちと火花が散っている。
呼吸を整える。息を吸って、吐いて、吸って、長く吐く。
──次第に、音が戻ってくる。世界の音だ。マリーだけの世界じゃない、たくさんの雑踏と、車と、飛行機と、ひとの声。
「マリー!」
顔を上げる。
遠くから一生懸命走って追いかけてくる、この国では珍しいほどきらきらとかがやく金の髪が見えた。
リリムだ。
意識していなかったけれど、それなりの距離を走っていたので豆粒くらいにしか見えない。でも、マリーにはその豆粒がリリムだとすぐにわかった。
「マリー、大丈夫か⁈」
いつも澄ましたリリムにしては、こっちがびっくりするくらいの大声だ。
なんだかそれが急にうれしくなって、安心して、泣き出しそうになる。思わず地面にへたり込んでしまった。
「……つ、疲れた……ぁ」
実践で『集中』を使うとこうなるのか。
まだまだ使い所が難しいなとしみじみ思う。あんなにイザベラと練習したのに、もっと鍛錬が必要なのだとわかってしまった。
すぐそばで倒れている母親の呼吸を確認する。ちゃんと息もあるし、心臓も動いていた。マリーは改めて意識を失ったサロメへと視線を向ける。
「……本当は、いいお母さんなんでしょうか……」
マリーは母親という存在をイザベラしか知らない。本当の母親がどういうものかわからない。けれどマリーはイザベラで十分だと思っているし、全ての子どもにとって、母親は自分にとってのイザベラみたいな存在だといいなと思う。
なんて、傲慢でしょうか。
はじめての調査がうまくできたかどうかわからなくて、マリーは意識を失った女性を見ながら、浅くため息を吐き出した。
「マリー、大丈夫⁈」
近づいてきたリリムは、汗だくになっていた。
こんなに必死な様子のリリムを見たことがなくて、なんだかうれしくなる。
「リリム。私は大丈夫です。でも疲れたのでだっこしてください!」
「あ、本当に元気そう! よかった……」
すぐ傍で膝を着いて体の様子を確認してくる姿は、お姫様にかしずく王子さまみたいだ。かしずいているのはお姫さまじゃなくて汗臭い悪魔祓いですけど。
「……うん。本当に怪我はしてないみたいだね。さすがマリー。けっこう力を蓄えた精霊だったのに」
「そうなんですか?」
「うん。僕たちを見ても口応えしてきたからね。かなりサロメさんの体を使いこなしていたし、普通の悪魔祓いじゃ苦戦してたと思う」
言われてみれば、確かにそうだ。
マリーはイザベラと姉の薫陶を受けて肉体派悪魔祓いの道を歩んでいるが、ソフィアのように魔術をメインに扱う悪魔祓いもいる。魔術メインでもやりようはあるが、その場合、かなり高度な作戦と魔術の構築が求められただろう。ひよっこの初任務としてはやや重たい気がする。やっぱりイザベラはスパルタだ。
「……サロメさんの体も、生きてるね。よかった。マリーがひとごろしにならなくて」
「……やなコト言わないでくださいよ」
「きみにはそれくらいの力があるんだよ。イザベラさまも、きっとマリエッタ義姉ちゃんもね」
そうだ。だからイザベラに力加減を骨身に染みるほど叩き込まれている。マリーは姉ほど筋力はないが、『集中』があるので使い方はことさら制限されていた。
「ホントに、サロメさんは大丈夫ですよね……?」
「うん、大丈夫。どこか骨は折れてるかもしれないけど、このレベルの精霊を相手に怪我させず抑えるのは、まだマリーには難しいよ。逆にマリーが怪我しちゃう」
マリーが怪我をすると、リリムもイザベラも、姉も悲しむ。だからきっと、これでよかったのだと思う。憑依されたひとまで救うには、もっとマリーが強くならないと難しい。
もう一度サロメを見る。マリーが殴った頬が赤く腫れ上がっている。まだ目覚める様子はない。
「……悪魔に取り憑かれてる時って、どのくらい自我があるものなんですか?」
「ひとによるかな。ほとんど精霊や悪魔に意識を飲まれている場合もある。それだと、本人の意識はないも同然だ。心神喪失状態ってやつ」
「サロメさんは……」
「意識はありそうだったね」
──それじゃあ、アシェルへの行為は。
それを思って、マリーは思わずうつむいた。アシェルがかわいそうだと思ったし、きっとサロメも被害者なのだと思う。
「マリー。悪魔はきっかけをつくるだけだ。選んだのは人間だよ」
リリムが、静かな声を出した。顔を上げてその横顔を見ると、彼もサロメを見つめている。
「たしかに、嫌な方へ考え込むように促したり、とっぴなアイデアを信じ込ませたりするのは悪魔のやることだ。『魔が刺した』ってやつ。今回もそうでしょ。
でもね、やると決めたのは、人間なんだよ。選んだのは人間で、その責任は人間自身が果たさなきゃいけないんだ」
リリムの言うことはもっともだ。それが自立した大人というやつで、自分でやったことの責任を彼女は引き受けなければならない。
でも、リリムの言うことはちょっと厳しいと思う。
「同情くらいはしますよ。だって人間って、そんなに強くありませんから」
もし悩んで悩んで悩み抜いている時に、親身になって話を聞いてくれて、一緒に憤ってくれて、こうすればいいよとアドバイスをくれるひとがいたら、信じてしまうんじゃないだろうか。
だから詐欺はどんな時代もなくならないし、リリムみたいな淫魔が長い時代を生きているし、信じることを訓え説く神さまはずっと愛されているのだ。
「リリムは悪魔だから仕方ないかもしれないですけど、それはちょっと悪魔に都合のいい考え方です。やっぱり、そそのかす方だって悪いですよ」
リリムは不貞腐れたような表情になって、そうかなあ、とつぶやいた。
「今回のリリムは、ちょっと厳しいですね」
「……前にも言っただろ。悪魔でも子どもには手を出さない。今回、あのシェイデムが狙ったのはサロメだったかもしれないけれど、結果として子どもが犠牲になった。僕はそれが許せない」
「悪魔の流儀にも悖るってコトですか」
「そうだよ。あのシェイデムも、この母親も。僕は好きにはなれないな」
リリムのアイスブルーの瞳が、冷たく輝くのを見た。
放っておいたら、サロメになにかしそうな予感がする。とっさにリリムの手をつかんだ。
「……リリム。帰りましょう。だっこしてください」
「ええ? 救急車来るから一緒に乗って帰りなよ」
「来る前に立ち去らないと、事情を聞かれるじゃないですか。面倒くさいですよ。全部教会とか機関に任せたいです。イザベラもそうしなさいって言ってました」
「案外ザルだよねえ、あの組織……」
リリムは呆れたように肩をすくめて、マリーの目の前で背中を見せてしゃがんだ。
「はい、おんぶ」
「ええー? お姫さまだっこがいいです」
「僕、今はマリーと同じ体格なんだから無理だよ……それとも大人に戻る?」
「そんなカンタンに姿って変えられるんですか?」
「できるけど、魔力をたくさん使うから精気も補充しないとダメだね」
「もー、しょうがないですねえ」
リリムが魔力を使った分、精気で補うのはマリーの役目だ。わざわざ精気を使うほどではない。マリーは今の、自分と一緒に成長してくれるリリムを気に入っていた。
あきらめてリリムの背中におぶさる。
「重いって言ったら今日はちゅーしてあげません」
「重くないよ。マリーは羽みたいに軽い」
「よし」
リリムの首に抱きついて頬を擦り寄せたら、リリムが笑った。
「マリー、ほんとにお疲れ様」
「はい。調査完了、ですね」
実際、マリーはひと目で悪魔を見分けますが、ほかのひとはそうではないので、そもそも悪魔祓いの任務というのはもっと時間と労力がかかります。イザベラは適切な難易度を選んでいました。
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