34 ゆめのはなし04
家に帰ると、サロメが二人を出迎えてくれた。サロメは相変わらず、ファウヌスの腰に抱きついている。
「おかえりなさい! ファウヌス、リリム!」
サロメの髪は長くなり、背も伸びた。かつては頭が腰の位置にあったのに、今はファウヌスの胸の下くらいの場所にある。それでも手足はまだ細く、顔立ちは幼い。けれど、少し女性らしさも感じるようになっていた。
ファウヌスは一度だけサロメの頭をなでて、無言で部屋の奥へ引っ込む。それもいつも通りだ。サロメはじっとそれを見送ってから、次にくるりと大きな瞳をリリムに向ける。
「ねえリリム、あとでお水を汲んできて」
「いいけど、お前は今までなにしてたんだ? いつもなら自分で行くだろ」
そう訊ねたら、濃い肌色に戸惑いの表情が浮かんだ。
「えっと……今日は体調が悪くて、寝てたの」
「えっ、そうなのか? そういや、朝からファウヌスとなにか話してたっけ。なら寝てなよ」
「うん、そうする。……ふたりのご飯は」
「てきとうにするよ。サロメはなにかほしいものある?」
「じゃあ、あったかいスープがいいな」
「わかった」
すぐに近所のおばさんを頭に思い浮かべる。時々、サロメがつくったおかずを交換しているので、事情を話せば分けてくれるはずだ。とくに、リリムは気に入られているし、水汲みと交換ならおばさんも喜んでくれるだろう。
サロメが自室に引っ込むと、ファウヌスが自室から顔だけだしてリリムを見た。視線が手招きしていたので、ファウヌスの石板だらけの部屋へ入る。
「ねえ、ファウヌス? サロメの具合が悪いって。知ってたなら教えてくれればよかったのに」
「今からその話をする」
ファウヌスが床に座り込んだので目の前に腰を下ろした。低い美声が、静かな部屋にひっそりと響く。
「サロメに『しるし』が出た」
「しるしって、なに?」
リリムが首を傾げると、ファウヌスは一度口をつぐんだ。それから優しいまなざしで、もう一度話しかけてくる。
「……サロメは子どもが産めるようになった」
リリムは何度かまたたきをして、ファウヌスを見つめた。理解が追いつかない。
「サロメはまだ子どもなのに?」
「子どもに見えるが、体は大人になったと言うことだ」
まだリリムにはわからない。見た目が子どもだったら、体も子どもなのでは?
「だから、体調が悪いのはそのせいだ。女は子どもを産めるようになると、二十日に一度は股から血を流す。苦痛も伴う。しばらくは家事を手伝ってやれ」
「えっ、わかった」
苦痛? 体調不良って、どこか痛いのか? 血?
「……それって、大丈夫なの?」
不安そうな声を出してしまったからか、ファウヌスは薄く笑みを浮かべた。リリムの頭を大きな手のひらがゆっくりとなでていく。
「病や怪我ではない。ただ、痛みには個体差がある。とくに、自分の体に大きな変化があると、痛みよりも驚きの方が大きいだろう。しばらく気遣ってやると良い」
リリムは力強くうなずいた。それはそうだ。股から血が流れて体が痛むなんて、自分だったらびっくりして死ぬのかと思うだろう。女がそんな体のつくりになっているなんて、今まで知らなかった。
早速立ち上がって、隣の家へ向かう。おばさんに水汲みと交換に食事を分けてもらい、自分の家とおばさんの家の分の水汲みを済ませた。
何度か家と水場を往復していると、おばさんからできたてのスープとパンを3人分分けてもらえた。急いで家に持ち帰り、早速サロメの部屋へ向かう。
「サロメ、ご飯持ってきたよ! 食べられる?」
仕切り布から顔を出したサロメは、少しだけ顔色が悪そうだった。けれど、リリムには笑顔を見せる。
「ありがとう、リリム。迷惑かけちゃったね」
「いいよ。それより、体は大丈夫なのか? 痛いって聞いた。血も出るって」
サロメは困ったように笑って、自分のほっそりとした薄い腹をなでた。
「うん、お腹痛い……。それに、ほんとに血が出るのびっくりしちゃった。前からそういう事があるんだよって、お母さんやファウヌスから教えてもらってたのに、やっぱりほんとにあると驚くね」
そんなことを教わっていたのか。全然知らなかった。
「それってすぐ治るの?」
「うーん、七日くらいだって」
「そんなに痛いままなの?!」
「そうみたい。でも、子ども産む時はもっと痛いらしいから、慣らしなんじゃないかってファウヌスが言ってた」
「子ども産むのって痛いの?」
「死んじゃう人もいるんだって」
なんてことだ! 全然知らなかった!
悪魔は勝手に生まれてくるから、誰も痛いことなんかない。人間は命懸けで出産するのか。だから子どもを大事に育ててるのか? そう何度も命なんてかけられないから、一回の機会が貴重なのか。種付けのことしか今まで知らなかった。
ずっと立ちっぱなしで話していたことに気が付いて、リリムは慌ててサロメを床に座らせた。
「じゃあずっと立ってたらダメだ。座ってなよ。ご飯は自分で食べられる? 食べさせてあげようか」
「あはは。そこまではいいよ。でも、体は冷やさない方がいいらしいから、ちょっとだけ毛布足してもらえるかな」
「いいよ。僕のあげる」
「……ファウヌスのは?」
「聞いてみる。でも、きっといいよって言うよ」
なにせ、悪魔は外気温に体温が左右されることはない。寒さ暑さを感じはするけれど、それは人間に擬態するためで生命維持のためではない。サロメが困っているなら、家の毛布全部を彼女に渡しても問題ないはずだ。
すぐにファウヌスの部屋から(無断で)毛布を持って来て、リリムの部屋の毛布もサロメの部屋へ持って行く。サロメを抱き上げて硬い寝台の上に乗せてから、たくさんの毛布で細い体を包んだ。
「リリム、重いよー」
「早く良くなってね」
そう言ったら、サロメは笑った。笑って、視線を下げた。
「……良くなったら私、お嫁に行くのかな……」
──さっき、ファウヌスが言っていた。
ヨシュアのところへ嫁に出す。
なんでヨシュアなんだろう。どうしてサロメは嫁に出なきゃいけないんだろう。どうしてこの家でずっと一緒に暮らすのはダメなんだろう。
「……サロメは、お嫁に行きたくない?」
「……どうかな。わかんない……」
サロメはついにうつむいてしまう。さっきファウヌスが『体の変化に驚いているだろう』と言っていた。それで、少し弱気になっているのかもしれない。なんだかサロメが全然違う。子どもじゃなくて、もっと別の『なにか』に思えた。
「…………あのね。本当は、わかってるの。でも、絶対無理だから、言えないの」
「なにが絶対無理なんだ?」
「んっと……内緒だよ? 絶対誰にも言わないでね?」
「うーん、どうしようかな」
「じゃあ言わない!」
「あはは。言わないよ。約束。サロメは、本当はどうしたいの?」
「うん……。あのね。
──私、ファウヌスのお嫁さんになりたい」
サロメの小鳥のような声を聞いて、リリムは、なんだか息が苦しくなった。
どうしてそう感じたのかはわからない。ただ、なぜだか酷く動揺していた。なにか言わなきゃ、と思うのに、声も出ない。サロメはその間も、ぽつぽつと自分の心の内を言葉にしようと頑張っていた。
「……でも、ファウヌスは私のこと、ずっと子どもだって思ってる。外へお嫁に出すのが当然って思ってる。私、そんなにかわいくないかな?」
「……サロメはかわいいよ」
「ほんと?」
「うん。いつもすごくかわいい」
「あはは、ありがとう」
本当だよ。声に出して言ったことはないけれど、いつもとてもかわいいって思ってる。『食事』の時に言う『かわいい』と、サロメに言う『かわいい』は全然違うんだよ。
そう伝えたいのに、でも『食事』の話は秘密だから、リリムはまた言葉を探して口を開閉するしかできなかった。
「……どうして、ファウヌスなの?」
「うーん……私が一番困ってる時に、助けてくれたから、かなぁ? それに、いつも優しくて、いろいろなことを教えてくれる」
そうだ。ファウヌスはそういう悪魔だ。自分にとっても、ファウヌスは困った時に助けてくれて、冷たそうに見えるのにおせっかいで、いろいろと教えてくれる、変な親代わり。
「私、ファウヌスが世界で一番大好き。ファウヌスにも、私のこと世界で一番好きになってほしいな」
サロメの黒くて大きな瞳は夢見るようで、星を閉じ込めたようにきらきらと輝いていた。濃い肌色が赤く染まって、甘い芳香が漂ってきそう。
──女の匂いだ。
淫魔の、リリムとファウヌスの、食糧。
リリムは微笑んだ。悪魔の笑みだったと思う。
「──ねえ、サロメ? じゃあさぁ、ファウヌスにおねだりしてごらんよ」
サロメ相手には聞かせたことのない、甘ったるい声で話しかけた。サロメはリリムの変化に戸惑いながらも、会話を続ける。
「え? そんなの無理だよ。だって、絶対ファウヌスは私のこと子どもだって思ってるもん」
「そんなことないよ。今日だって、ファウヌスは僕に『サロメは子どもが産める大人になったんだ』って言ってたよ」
「そ、そうなんだ……」
「体が落ち着いたらさ、夜にファウヌスの部屋へ行ってごらん」
「でも、いつも入っちゃダメって言われてる……」
「ちょっと入るだけだよ。しごと中じゃなきゃ怒られない。僕だってそうだよ。ねえ、今言ったこと、素直にファウヌスに伝えてみなよ。それでね、こんな風におねだりしたらいい。
『私、ファウヌスの子どもが欲しい』って」
甘い、あまぁい、声。そうして、サロメが言ってほしい言葉を、重ねる。
「ファウヌスの……子ども……」
「そう。ファウヌスはとっても優しいから、サロメがかわいくおねだりしたら──きっと、子どもも授けてくれるよ?」
「そ……そう、かな……」
「うん。きっと、ね……」
リリムの甘露のようなささやきに、サロメは浮かされたように頬を紅潮させて、うなずいた。
「……わたし、ファウヌスの赤ちゃん、ほしいな……」
ああ。──なんて、おいしそうな、匂い。
──今、この時。
『淫魔リリム』が、この世に生まれ堕ちた。
悪魔は二度生まれる。
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