33 ゆめのはなし03
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この地はカナンと呼ばれていた。
周囲の土地よりも発展しているらしく、ひとびとは日中には農業や商いをして過ごし、夜は家族と集まって食卓を囲む。
家族は多い。子どもをよく産んだ。医者の数が圧倒的に少ないから、病にかかった子どもはすぐに死ぬ。だからたくさん子どもをつくる。
ファウヌスからそう聞いていた。
「あの家は、この町でもっとも権力を握った家だ」
あの隠れ家で『食事』をし終わった、三度目の帰り道だった。とっぷりと日は暮れていて、ベージュ色の土と白い砂に覆われた町は真っ暗な闇に溶け込んでいる。ファウヌスがかざす明かりだけが煌々と輝いていた。
「主人の妻は、子どもが産めない。だからああして、取り巻きの女や奴隷の女に男を当てがっている。町の子どもの数が増えるし、娯楽として受け止めている者もいる。女は皆を管理する主人として、矜持を保っている」
「でも人間って、そういうのリンリ? とかで嫌がるんじゃなかったっけ?
──ダメなコトだから、僕たちのごはんになってる」
ファウヌスは、否定しなかった。そしてきっと、女主人がああなるよう仕向けたのはファウヌス自身だろう。
「……子を望む女にとって、子ができないのは辛いことらしい」
「ふーん? 僕らにはよくわからないね。望んでも叶わないことなんて、たくさんあるんじゃないの?」
「そうだな。……悪魔だって、それは同じだ」
ファウヌスがわずかに瞳を伏せた。彼にもなにか望みがあったんだろうか?
「……叶わない望みには感情の歪みができる。それも、大抵は悪魔の糧になる。俺は彼女が挫折の中の堕落から、最も美しくいられる方法を提示したけだ」
「……美しく?」
たしかに、あの女主人は美しい。ただ、堕落しきった姿しか見ていないリリムとしては、精神的にも美しいとは思えなかった。もちろん、おいしそうではあるけれど。
「……俺は提案しただけだ。それをどう解釈し、どう行動するかは人間が決めることだ。悪魔はそれを強要することはできない」
「……ふーん?」
つまり、どんな考えかは知らないが、ファウヌスはあの女主人に、奴隷の女に子どもを産ませて管理することを勧めたわけか。そして、今の状況に至っている。
まだ生まれたばかりのリリムには、ファウヌスの考えも女主人の気持ちも、てんでよくわからなかった。
「まぁいいや。それで、僕はいつあのひとを食べられるの?」
「さあ。相手次第だな。彼女がお前を望めば応えてやれ」
「選ばれるのを待つの? 強引に口説いてもいいんじゃない?」
リリムが気軽にそんなこと言うと、赤い瞳が鋭くこちらを見た。
「……ひとつ、大事なことを言っておく。無理やりに女を襲うな。俺たちは淫魔だ。異性を性的に惑わすことで力を得ている。自分が姦淫に耽るな。『惑わす』ことが最も重要な要素で、性的交渉はただエネルギーを体内に取り込む儀式に過ぎない。
それに、人間社会の中で他人の女を犯すことは罪だ。相手に罪を犯させるのは構わない。ただ、自分に矛先が向くようなことはするな。その土地に長くいられなくなる」
「ええ? どうしたってこっちに矛先向いてこない? だって僕たち、旦那さまたちから見たら浮気相手じゃん」
「……一概に、そうとも言えんさ」
ファウヌスは、なぜか悲しそうな顔をして、それきり黙り込んでしまった。
ファウヌスは、ときどき、こんな老人みたいな表情をした。彼がどうしてそんな顔をするのか、リリムにはわからない。
「……まあ、お前の言う通り、どの道今の環境は長く続かない。そういうものだ。なにごとも、いずれ終わりがやって来る」
「ここから移動するの?」
「そのうち。どんな状態でその時がやって来るかは、俺にもわからない。まあ、良い終わり方にはならないだろうな。なにしろ、俺たちは悪魔で、淫魔だから」
異性を惑わし、淫蕩の罪へと誘う存在。そうとしか生きられない存在。それがリリムたち淫魔だ。
「……サロメはどうするの?」
「もうあと少ししたら、適齢期だ。嫁に出すことになる」
リリムは青い瞳をまたたかせた。
「えっ、まだ子どもでしょ」
「女は子が宿る体になれば、嫁に出す。結婚して子どもを産み、家庭を守る。それが律法の教えだ」
そういうものなのか。
まだ地上で生活し慣れていないからか、酷く動揺している。自分でも驚いていた。
「……なんだ? お前がサロメを囲みたいのか?」
「えっ、べ、別に!」
いつも一緒に町へ出てあれこれ世話を焼きたがるサロメは、リリムからは子どもにしか見えなかった。どうもそういう女は趣味ではないらしい。
「サロメは嫁に出すが、お前はまだ放り出したりはしない。人間の社会は複雑で、人間と違って悪魔は察しが悪いから」
「そうなの?」
「ああ。俺を含めてな。……寿命が長いせいなのか、悪魔が他者との共感を重視していないからか、わからないけれど」
「ふぅん」
ファウヌスはいつも難しいことを考えている。リリムよりずっと長生きだから、知っていることも多くて、考えることも多いのだろう。大変だな。
「だから、お前の独り立ちはもう少し先だ」
「わかった」
ほかの悪魔はどうか知らないが、リリムに文句はない。ここでファウヌスとサロメと過ごすのは、楽しかった。
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リリムはファウヌスが命じた通り、広場に石板を並べた。
それを興味深そうに少年たちが覗き込んでいる。
「これがタルムードの物語の石板だ。読める者はいるか?」
ファウヌスの問いかけに、元気よく手を上げた黒髪の少年がいた。ヨシュアという、オリーブ畑を管理している家の長男だ。
「はい、師匠。これは『キツネとブドウ』の話です」
「読み上げてくれ」
ファウヌスの声に、ヨシュアが自信を持って読み上げた。
この話は、以前リリムもこの広場でファウヌスが語っているのを見ていたので覚えている。
お腹を空かせたキツネが、見事なブドウが実っている畑を見つけた。しかし、畑は高い柵で囲われており、一箇所だけ小さな穴が開いているだけ。 キツネは中に入ろうとしたが、体が太すぎて通れない。そこでキツネは3日間断食をして体を細くし、ようやく中に入ってブドウを堪能した。
さて、キツネは満腹になって外に出ようとしたが、太ってしまったため元の穴を通ることができなくなっていた。 結局、キツネは再び3日間断食をして元の体型に戻り、ようやく外に出ることができた。
キツネは外に出ると、恨めしそうにブドウ畑を振り返って「ブドウよ、お前はなんておいしいんだ。だが、お前が何の役に立つというのか? 入る時も裸、出る時もまた裸ではないか」と呟いた。
なんのこっちゃ。
そこにおいしそうなものがあったら食べるのがいきものというやつだ。それが必要ならそうするだけだ。
ファウヌスは低く美しい声でヨシュアに問いかけた。
「この話は、なにを私たちに教えているか、わかるか?」
「はい。人はこの世に来る時、何も持たずに生まれてきます。そして去る時も、築いた財産を持っていくことはできません。この世の富に執着することの無意味さを教えてくださっています」
ファウヌスは一度うなずいて、淡く微笑んだ。
「ちゃんと学んでいて、とてもえらい」
そのひと言だけで、ヨシュアの濃い肌色が薔薇色に染まった。ファウヌスを見る目が尊敬にかがやく。
「この石板は今日一日、ここに置いておく。文字がまだ読めない者はこれを見て学ぶように。必要なら俺を呼んでも構わない。それでは、今日はここまで」
ファウヌスの言葉に、座って話を聞いていた少年たちが一斉に立ち上がり、石板を眺めた。
この町で、文字が書かれた石板はまだ珍しい。もっと大きな町に行けば、石板だけを集めた場所も存在するらしいが、リリムには興味がなかった。ファウヌスに言われて文字は学んでいるが、まだこのファウヌスが刻んだ石板を読みこなすほどでもない。
リリムは立ち上がって、広場を去ろうとするファウヌスの後を追う。
生徒たちとすれ違う瞬間、ヨシュアがリリムを見て不敵に笑った。嘲笑というやつだ。ファウヌスに褒められていい気になっているのだろう。ムカつくガキだ。
それでもリリムは睨み返すだけで、黙ってファウヌスに付いて行く。
「アイツ生意気」
「手を出すなよ。お前の体は成人しているんだから」
振り向きもしないで、ファウヌスが小言を言った。
でも、リリムは生まれてから春を2回迎えただけだ。悪魔はもともと長く精霊として大地を流れていたものたちが集まって世界に固定された存在なので、人間の赤子のように知識ゼロというわけではない。けれど、学習成果が二年分なのは仕方ないだろう。悪魔だって時間を操れるわけではないのだ。
リリムは唇を突き出して、顔で不服を訴えた。
「……アイツが大人になったら、多分僕が負けるから、手を出さない」
「そうだな。それがいい。もしかしたら長い付き合いになるかもしれないからな」
ファウヌスが不思議なことを言った。
「ヨシュアのところへ、サロメを嫁に出す」
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