32 母親
アシェルは不思議そうに首を傾げて、戸惑った表情を浮かべた。
「描けない? 髪型が難しいとかですか?」
「ううん。そんなことない。髪は短くて、俺と同じ黒髪で、俺は母さん似で……うん。口では説明できるけど、描けない……」
どういうことだろう。記憶も意識もはっきりしていそうだし、これまでの彼の絵からも、普段から周囲をよく観察していることがわかる。
「お母さんとは一緒に暮らしてるんですよね?」
「うん。今日は、出かけてていないけど……ちゃんと夜には帰って来るよ。今朝も一緒に食事したし……」
アシェル本人も、どうしてかわからないと首をひねっている。
「……わかった。無理に描かなくてもいい。『描けない』って感覚の方を教えてくれるか? 手が動かない?」
「うーん……というか、母さんを思い出すと、ほかのことができなくなる感じ。思い出すまではできるんだけど、そのまま手を動かせない、みたいな……?」
「お母さんを思い出すと、全部が止まっちゃう感じ?」
「そう! それだ! 別にほかになにか思ったりもしない。ただ止まっちゃうんだ」
「そうか」
リリムは静かに相槌を打って、なにも描かれていないノートを見た。
「……お母さんは、どんなひと?」
「えーっと、勉強には厳しいかな。でも優しいよ」
「最近はどんなこと話した?」
「友だちのこととか、学校のこと……あ、でも最近、シナゴークには行ってないみたい」
「どうしてですか?」
「……なんか、父さんと上手くいってないみたい……」
アシェルは、はじめて沈んだ表情を見せた。
これはヨセフの話にはなかった情報だ。
「ケンカしてるんですか?」
「いや。別に言い争ったりはしてないよ。でも、ちょっとよそよそしいんだ。……あんまり話をしてないんじゃないかな。母さん、しごと忙しいし」
「……お母さんのことが上手く考えられない感じは、これまでの病院で話したことがある?」
「話してないよ。父さんと母さんのことは訊かれたけど、言葉でしゃべるのにこんな変な感じになったことないし、俺も今はじめて気がついた」
12歳にもなれば、肉親の絵を描くこともないだろう。ほかの絵はとてもよく描けているし、応対もはっきりしているから周囲も自分も気がつかなくてもおかしくはない。
「……お母さんは、今日はいつ帰って来る?」
「夜。ふたりが帰ってから戻るって言ってた」
面談を終えて、スマートフォンでヨセフを呼び戻す。待っている間に、リリムがアシェルに切り出した。
「今日三人で話した内容は、お父さんには話さないから」
リリムが言うと、アシェルは静かにうなずいた。
「……父さん、もしかしたら母さんとのことは、俺に隠してるのかもしれない。父さんも母さんも、俺には優しくしてくれるから……」
「……そっか。ふたりとも、いいひとなんだな」
「ああ。俺は2人の子どもで良かったなって思ってる」
アシェルの堂々とした言葉に、リリムは少し戸惑っているようだった。もしかすると、リリムには父親というものがいないから、アシェルの言葉の意味が理解できないのかもしれない。
ファウヌスのことは身内として慕っているようだけれど、彼はやっぱり、祖父とか教師とか、親よりは少し遠い存在なのだろう。
「三人だけの秘密ってコトですね?」
しんみりした空気をわざと壊したくて、マリーは器用にウインクしてみせた。アシェルが笑ってくれる。リリムも、そうだね、と言って微笑みを浮かべた。
3人で笑って、それからアシェルはノートのページをちぎってマリーに差し出してくる。
「マリー、これあげる」
「あ! 猫ちゃんの絵ですね。いいんですか?」
「……次会った時は、もっとちゃんと描いたのをあげるよ」
熱のこもったアシェルのまなざしに、おっと、と思っていたら、間にリリムが割って入った。
「……そういう時は、『きみの絵を描いてプレゼントしてもいい?』って言うとより効果的だよ」
「む、なるほど……」
「リリム、余計なコト言わない」
談笑していると、玄関が開く音が聞こえた。ヨセフが帰ってきたのだろう。
「……また来る?」
「ええ。多分」
「日中はグレート・シナゴークにいるから、なにか気がついたことや、困ったことがあったら来るといい」
グレート・シナゴークの応接室。午前中に入ったのと同じ部屋、同じソファにヨセフが腰掛けた。アシェルの快活さとは雲泥の、沈んだ様子である。
「それで……息子はどうでしたか?」
「悪魔憑きではないと、神に誓って断言します」
マリーのはっきりとした言葉に、ヨセフは安堵とも、絶望ともとれる複雑な表情を浮かべた。
「アシェルの症状は精神疾患だ。もっとちゃんとした検査を受けた方がいい。精神疾患の治療は医者との相性が大きいから、今通っている医者で良くならないなら、別の医者に変えてみて」
リリムの言葉に、ヨセフは額を抱えた。正統派のユダヤ教徒である彼が、わざわざカトリック教会の伝手を頼ってグノーシス調査機関にまでたどり着いたのだ。そんなことはとっくに試しているはず。
「……ただ、少し気になることがある。母親にも会わせてくれない?」
そうリリムが言うと、ヨセフは力なく顔を上げた。
「……アシェルが、なにか言っていましたか……?」
「とくになにも。僕たちが気になっただけだよ」
リリムはしれっと嘘を吐いた。こんなになんでもないように嘘を吐かれたら、見抜く方法なんてないように思える。私には嘘吐いてないといいんですけれど。
ヨセフはリリムの言葉を疑わなかった。
「そうですか……構いませんが、本人に確認して追って連絡で大丈夫ですか?」
「もちろん」
ヨセフは勝手に妻の予定を決めないひとなんだな、と感心してしまった。マリーは一般家庭で育っていないので実際のところはわからないが、お世話になっているエスコリアルの商店では、よくそれが理由で夫婦喧嘩をしているのを見かけていた。
どうしてこんなに相手を尊重するご家庭で不和なんて起こるんだろう。
「奥様の名前はなんとおっしゃるんですか?」
「サロメと言います」
──リリムは、なにも言わなかった。
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