31 悪魔憑きの少年
その光景を思い出しているのか、ヨセフは体を一度小さく震わせて、唇を舐めた。
「……眠ったはずの息子が外に出ていくのを見て引き止めたんですが、まったく聞き入れず、追いかけていくと……家の近くの工事現場で奇声を発しながら土や泥を食べているんです。……とても正気とは思えなくて……」
リリムはヨセフの言葉を、子どもとは思えない余裕で受け止めている。マリーは顔に出さないでいるので精一杯だ。ホラーは苦手なんですよね。
「息子さんは、そのことを覚えているの?」
「いいえ……。翌朝、本人に確認しても覚えていない、と言うんです。これでは『自らを正す』ということもできません」
「……失礼だけど、病院には連れて行った?」
「もちろんです。病院の精神科で、『夢遊病』と『異食症』と診断されました。ですが、なかなか改善せず……」
マリーはリリムと目を見合わせた。
「……悪魔憑きではないか……その判断のため、息子に会っていただけますか?」
「もちろんです」
「できるなら、自宅も見せてほしいな。問題ない?」
リリムの提案に、ヨセフは一瞬、体を強張らせた。ためらいながら、それでも一度うなずく。
「……わかりました。ご案内します」
「助かるよ」
「いいえ。……お願いです。息子を、なんとかしてやってください」
ヨセフの自宅は、西エルサレムの端にある低層アパートの一室だった。外観は法律で定められた、薄ベージュのエルサレム・ストーンでできていて、赤茶の瓦が被せてある。
エルサレムの建物は基本的にエレベーターがない。暖房もあまり効いていないことがほとんどで、建物に入っても風がないだけマシ、くらいの温度だった。
ヨセフが家の扉を開けると、玄関にマリーと同じくらいの年ごろの少年が立っていた。黒い髪と瞳の、容姿の整った少年で、こちらを見て目を丸くしている。ちょっとかわいい。
「えっと……今日はシスターが来るって聞いてたんだけど……」
たどたどしい英語が、まだ甲高い声で紡がれる。そう、12歳の子なら、マリーの方がお姉さんだ!
「はい。私のことです。Shalom、私はシスター見習いのマリエッタです。どうぞ、マリーとお呼びください」
「僕はリリム。マリーのサポーターだ」
リリムだけ手を差し出して、少年はそれを恐る恐る握った。マリーとリリムを交互に見て、何度も目をまたたいている。
「Shalom……俺はアシェルだ。その……今日は、話を聞くってだけだから、見習いなのか?」
「こら、アシェル。お二人はスペインからわざわざ来てくださってるんだぞ」
「でも、まだ子どもだよ」
「マリーは幼く見えるけど、ちゃんとしごとはできる。きみよりも年上だし」
リリムの言葉に、アシェルは再びマリーを見た。
この容姿、別に気に入らないわけではないけれど、こういう時はちょっと不便だ。日本人は柔和な顔つきで舐められやすい。
遺伝子をいじってわざわざこの容姿にしているのだろうから、どうせならもっと大人っぽい姿にしてくれれば良かったのに。それとも、『マリエッタ』の製造に携わった科学捜査班の誰かは、こういう姿が好きなロリコン野郎だったのか。
ともかく。
「……私のことが不満なら、帰ってもいいんですけれど」
「マリー」
「確かに、私は成人していない子どもですし、教会が人手不足だから送られてきたことは否めません。私が嫌なら交代を。イザベラなら対応してくれるでしょう。すごく高額ですけれど」
「えっ」
「イザベラは貴方が望む通りの大人です。私たちの機関の現場責任者ですし、確かな実力です。その分、当然価格は上がります。資本主義社会において、希少価値が高いサービスは高額なんですよ。ご存知ですよね?」
「…………」
アシェルは助け舟を求めるように父親を見上げた。ヨセフが頭を抱えている。
「……ボランティアなわけがないだろう? いいから部屋にご案内するんだ」
「……はい」
勝った。
マリーは得意げに鼻を鳴らした。隣のリリムがなにか言いたそうな顔をしている。
「……ほどほどにしとかないと、僕以外の友だちつくれないぞ」
「ほっといてください」
案内されたリビングは石造りのままで、床にカーペットが敷かれていた。その上にソファとテーブル、それと大きな暖炉が設置されている。
思っていたより広い。リヨンに住む姉の家のリビングの倍はあるだろうか。キッチンも広く、シンクは2つあった。コシェルという、決められた方法で調理された肉しか食べないという戒律のためだろう。
アシェルはマリーとリリムにソファへ座るように促し、自身も一人掛けソファに腰掛けた。
「じゃあ、父さんは外へ出ているから、終わったら呼びに来てくれ」
「うん」
ヨセフはそう言い残して、家から出て行った。
ありがたい。肉親には言いたくないことも考えられるからだ。できるだけ本心を聞きたいし、悪魔祓いは場合によってエンカウント後即戦闘になる可能性もある。
──今回は、そんな心配はなさそうだけれど。
「マリー」
「はい。彼は違います」
マリーは生まれながら、悪魔を見分ける目を持っている。聖母マリアの肉体が備えていた生来の奇跡なのだろう。
「僕もとくになにも感じない。アシェル。きみは自分の状況がわかっててここにいる?」
リリムの問いに、アシェルは気まずそうにうなずく。
「……病院でも聞かれた。正直、俺には記憶がないけれど、朝起きたら砂だらけの時があるし、しばらく具合が悪いこともあった」
「……多分、今日は病院で話したのと同じことを聞くことになると思います」
「うん。父さんにも言われた。だからいいよ」
「病院ではどんな話をしましたか?」
マリーの質問に、アシェルは困った表情をしてみせる。
「それが、別に、とくに変わったことを聞かれたわけじゃないし、俺も話してない。最近変わったことはなかったか、とか、友達とは仲良く遊んでるか、とか」
「……変わったことはない?」
「うん。友達とも仲は良いと思う。ケンカは時々するけど、サッカーしたり、チェスとかリバーシしたり……外でも家でもネットでも遊ぶ。父さんと母さんもいつも通りだし……」
アシェルは視線を落として、不安そうな声を出した。
「……あんまり心当たりがないから、もう悪魔の仕業にでもしないといけないんだと思う……。父さん、普段はそんなこと考えるひとじゃないんだけど……」
アシェルは12歳になると聞いている。もう家族に対して配慮や遠慮を感じてもおかしくない年齢だろう。マリーだって、そのくらいの歳には姉に甘えるのはほどほどにしたほうがいいかも、と考えたものだ。マリーのわがままは全部リリムとファウヌスが背負えば良い。
つまり、アシェルはごく普通の少年に見えた。マリーは同年代の友人はリリム以外にいないので(リリムも本当は同年代ではない)、正直なんとも言えないけれど、きっとこの子はとても賢くて善い子だ。
隣のリリムをそっと盗み見る。美しい横顔はなにかを考えているようだった。
「……病院で、絵を描いたりした?」
「絵? いいや。なんかレゴみたいなものはつくらされたけど……」
「ここで描けるかな? 紙と筆記具はある?」
「うーん、画材とかはとくに……ノートと鉛筆ならあるけど」
アシェルは一度席を立って、学校で使っているようなノートと鉛筆、消しゴムを持ってきた。リリムが一度うなずく。
「じゃあ、これから言うものを簡単にでいいから描いてみて。……花」
アシェルは戸惑った顔をしたまま、けれど手はささっと線を描いた。大きな花弁が6枚重なって、中央の大きな花芯を飾っている。
「上手ですね。アネモネですか?」
マリーが思わず声を上げると、アシェルは自信を持ったらしく、表情が明るくなった。
「そう。春にたくさん咲くんだよ。きみにも見せてあげたいな」
「次。猫」
絵心のないマリーとしては急に難しくなったような気がしたが、アシェルは戸惑うこともなく、次のページにコミックのような単純な線の猫を描く。
「かわいい!」
「あげようか?」
「はい!」
「次。……友だち」
ノートのページをめくって、アシェルは同世代の子どもの絵を描いた。人間は少し時間がかかったが、これもコミックみたいにシンプルな線で、一人ひとり特徴をとらえようとしているのがわかった。3人いて、サッカーボールも描かれている。
「もっと時間があったら、描きたい奴らがまだいるんだけど」
「いや、今はこれでいいよ。よく描けてる。じゃあ、次。父親」
次のページいっぱいに、アシェルはヨセフの顔を描いた。友だちの絵よりも詳細で、その表情はマリーたちが知るヨセフよりも凛々しい。
「アシェルにはお父さんがこんな風に見えているんですね」
「うーん、どうかな。俺の絵が下手なだけかも」
「そんなことないですよ。とっても上手です」
少なくとも、ヨセフを知るひとが見れば、この絵が彼を描いたものだとすぐわかるだろう。ちなみに、マリーは「なにを描いても同じ顔だね」とリリムに言われたことがある。リリムの審美眼が厳しすぎるだけだと思うことにしていた。
「次。……母親」
その瞬間、アシェルの手がぴたりと止まった。
視線は一点に留まったままで、なにかを考え込んでいるようにも見える。
「あれ……なんでだろ……? 描けない……?」
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