30 神の学舎
目を覚ます。
マリーは上半身を起こして、隣でぐっすりと眠っている淫魔の寝顔を見た。見た目は天使みたいに整っている。
──昔、似たような夢を見たことがあった。
豊かなオリーブ畑の下、穏やかなひとびとの営み。乾いた風とやわらかな日差し。
生まれたばかりの無垢な魂。
それなのに、それは汚れていた。
「…………」
「ん……マリー、起きたの……?」
マリーが起き上がったことで、布団がめくれて寒気が入り込んだらしい。リリムがぶるりと体を震わせてうっすらと瞳を開いた。
「マリーはほんとうに早起きだなぁ。僕まだ眠いよ……」
「……じゃあ、まだリリムは寝てたらいいです」
そう言って金の髪をなでると、リリムのアイスブルーの瞳がゆっくりと閉じられていく。リリムは、悪魔は朝が弱いから、いつものことだ。
静かになった部屋で、マリーも寝起きの頭でぼんやりと思い出した。
時々視る、あのオリーブの丘の夢。
もしかすると、あの場所はここなのかもしれない。
リリムが生まれた故郷。オリーブの丘。乾いた風の吹く大地。
それを、リリムが無意識に思い出しているのかもしれない。
あの夢は、リリムの過去なのだろう。ファウヌスがいた。今とは全く雰囲気が違って、いかにも悪魔という感じだけれど、でも、マリーもよく知るファウヌスだった。
リリムがわざと視せているのだろうか。淫魔はひとの夢を渡って精気を得る。夢を操るのもお手のものだ。
けれど、リリムがそれをする理由がないように思える。自分に伝えたいことがあるなら、面と向かって話せばいい。少なくとも、マリーとリリムはそういう関係だった。
マリーに言わない、ということは、リリムが話したくないか、マリーがわかるようになるまで話すのを待っているのだろう。
それがどういう意図かは、まだ自分にはわからないけれど。
* *
翌朝。ホテルで朝食を取り終えてから、タクシーで目的地まで向かう。
改めて車から見るエルサレムの街並みは、ベージュやはちみつ色をした四角い建物で構成されていて、やっぱり異国の地という印象を強く受ける。馴染んだヨーロッパの街並みとは全然違った。
タクシーは繁華街まで入らずに、住宅街らしきビル群へと進む。商店もまばらになってきて車が目立つ。エスコリアルの町のような地方都市の気配を感じた。主に車移動する文化らしい。広い車道で、路上駐車も多く見られた。
目的地の近くでリリムとともに下車する。気の良い運転手が手を振ってくれたので、二人でふり返した。
降り立った場所は静かで、まだ冬期の乾燥した風が残っているのか、かなり冷たく感じられる。リリムが手をつないでくれて、なんとか暖を取った。
スマートフォンのマップが誘導するまま、道路ばかりが広い石畳の道を進む。しばらくすると、マップが目的地に着いたことを示していた。
「ここ……?」
目の前には、国立大学のような巨大なビルが建っていた。
装飾はほとんどないが、住宅地にあっては目立つ灰色の巨体。
「ベルツ・グレート・シナゴーグ。エルサレム最大の、ユダヤ教の共同会堂だ。
マリー、宗教学の復習だよ。シナゴークってなーんだ?」
「ふふん。ちゃんとお勉強しましたよ。ユダヤ教において安息日やお祈り、祝日の準備や日々の勉強に使われる礼拝堂のことですよね」
「そうだよ。どうして『教会』じゃないんだと思う?」
「それは、ユダヤ教の『聖なる場所』はエルサレム神殿のみだからです。カトリックにおいて教会は建物そのものが聖なる場所ですが、ユダヤ教においてモノに神性は宿らないとされています。だから偶像崇拝も禁止されているんですよね」
「うん。その通り。……でも、こんなに大きいシナゴークははじめて見たなぁ」
ふたりで建物を見上げていたら、少し目立ってしまったらしい。建物から白シャツにチノパンの中年男性が小走りにやって来て、英語で声をかけてきた。
「Shalom。シスター・イザベラのお遣いの方ですか?」
「ええ。貴方が連絡をくださったヨセフさんですか?」
男性はうなずいて、マリーに軽く会釈をしてくれた。リリムには握手を求めているので、戒律を守るタイプの男性らしい。
「ようこそエルサレムへ。ベルツ・グレート・シナゴーグの催事進行管理者を務めるヨセフと申します。ずいぶんお若くて美しい方々がいらっしゃったので、驚いてしまいました」
「ありがとう。よく言われる」
リリムはけろりと笑顔で返した。よその宗教施設で問題なんか起こさないでくださいよ。
けれどヨセフは笑みを浮かべて受け入れてくれた。寛容な人物らしい。
「どうぞこちらへ。案内させていただきます」
ヨセフに付いて、大きなシナゴークの入口から堂々と入る。
今は平日の日中だが、出入りするひとはそれなりにいた。これだけ大きな施設なのだから、関連するひとびとも多いのだろう。
「ベルツ・グレート・シナゴーグは、エルサレム最大のシナゴークです。2000年に大規模改修が完了したばかりの、比較的新しい施設なんですよ」
「とっても大きくて驚いちゃいました!」
「そうですよね。数万人規模の信徒を収容できる広さで、礼拝堂、学習室、礼拝室、集会場、宿泊設備も備えています。展示物は17世紀にイタリアで発見された聖櫃を展示しているのみで、観光目的の施設ではありません。立ち寄る方は皆、ユダヤ教徒の方々ばかりなんですよ。と言っても、戒律さえ守っていただければ教徒以外の方も入館は認められています」
「ずいぶん開かれた場所なんですね」
「それがユダヤの教えです。神に問い、自らに問う。そのために仲間とともに学ぶ場所がシナゴークの役割なんです」
マリーは長年、カトリック教会の庇護を受けて育ってきた。イザベラやリリムからほかの宗教についても教えられていたが、実際の信徒から誇らしげに語られると、なんだか自分の内側の世界が広がったような気がする。
隣にいる悪魔が、その辺りに興味があるかはわからないけれど。
「ユダヤ教は神と人間の距離が近い。神は唯一だけれど、その神に対して人間が質問をしても良い。考えることを積極的に促すのがユダヤの神だ」
「ええ。おっしゃる通りです」
「ユダヤでは悪魔はいても、悪魔でさえ神の管理下にあると考えられている。だから『悪魔祓い』なんて考え方はないはずなんだ。どうしてシスター・イザベラに連絡が入るようなことになったの?」
リリムの問いに、ヨセフは渋い表情になって口を閉じた。しばらく無言で歩いた先に部屋があって、入室を促される。
室内は応接室のようで、華美ではないソファセットが置いてあった。そこにマリーとリリムが腰掛けた途端、ヨセフは語りはじめた。
「……リリムさんの言った通りです。ユダヤでは『悪魔祓い』といった行為は行いません。罪はいつも人間の心の内側にあるからです」
どこかで聞いたような話だ。
横目でリリムを見ると、まっすぐにヨセフを見つめて話に耳を傾けている。
「でも、どうにもそれでは解決できないのです。ついにさじを投げてしまって、藁にもすがる思いでいろいろな方に相談したところ、カトリック教会からシスター・イザベラを紹介していただきました」
「たしか、ご相談内容には『奇行に走る少年がいる』とありましたけれど」
「……私の息子なんです」
ヨセフは肩を落として、マリーとリリムの向かいに置かれたソファに力なく腰掛ける。まるで懺悔するかのように両手を合わせて、額に押し付けた。
「……息子の名はアシェル。12歳になりますが、夜、眠ったと思ったら……食べはじめるんです」
「なにを?」
「土、を」
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