26 シスター・メアリ
いくらか歩いても、はちみつ色の壁を目的にしていては距離感がおかしくなってしまう。それくらい、その壁は大きかった。マリーと同じように壁を見上げてメアリが解説してくれる。
「『嘆きの壁』は紀元前10世紀ごろにソロモン王がここにエルサレム神殿を築き、その後ヘロデ王が拡張したと言われているわ。紀元70年ごろに起こったユダヤ戦争でローマ帝国軍によって神殿は破壊されたんだけど、この西側にあった壁だけが今も残っているの。今ではユダヤ教徒の巡礼地になってるのよ」
遠いとおい時代の遺跡。それが2000年経ってもまだ残っていて、誰かの心の支えになっているなんて不思議な気がした。
『嘆きの壁』をつたって進むと、すぐに『岩のドーム』の入口が見える。
敷地内に入ると、遠目で見ていた黄金のドーム屋根を被った建物が目に飛び込んできた。ドームまでは広場みたいに整備されていて、そこかしこに観光客や礼拝者が見える。木々が敷地をぐるりと囲っていて、そこだけ見れば公園のようだ。観光地として整えられた石造りの広場を進むと、いよいよドームが間近に見えてくる。
ドーム屋根の下は青を基調としたモザイクタイルが貼り付けられていて、そのタイルにも細かな文様が描かれていた。青も深い青、濃紺、空色などさまざまな青が使われていて、金と青のコントラストがまばゆく見えた。
「すごい、きれいな建物ですね……!」
「ガワは最近張り替えられたものよ。それでも中の構造は変わっていないわ」
メアリの解説にあわせて、建物中央にある出入り口に視線を向けた。礼拝者が多く出入りしていて、とくにイスラムの衣装が目を引く。
「今はイスラム教徒しか中に入れないの。残念よね」
「なんでですか?」
「防犯のため」
あっさりとしたメアリの説明に、納得するしかなかった。
実際に宗教戦争が現代まで続いている土地なのだ。観光地化してテロでも起きて建物や土地が破壊される方が嫌だろう。どの宗教がこの土地を管理するかは揉めたんだろうな、と思う。
建物内に入れないので、ほかの観光客に混じって建物の外周を歩きながらドームの装飾を眺める。リリムと手をつないで解説でも聞いていれば、そんな観光だって楽しいものだ。
「『岩のドーム』は、7世紀後半に第5代カリフのアブド・アル=マリクによって建設されイスラム建築の傑作よ。ここはイスラムでは預言者ムハンマドが天に昇った場所とされていて、ドームの下には岩が収められているの。
すぐ傍にはユダヤの『嘆きの壁』とイエスさまが処刑され、埋葬、そして復活なされた『聖墳墓教会』があって、世界三大宗教が交差する象徴的建造物とも言われているわね」
「へええ! こんなに近い場所で何度も奇跡が起こるなんて、聖地と呼ばれるにふさわしい場所なんですね」
「どういった出来事を『奇跡』と呼ぶかは、難しい話だけれどね」
マリーはメアリの横顔に、わずかに真剣味が帯びるのを見た。眼鏡の奥の黒い瞳は、遠い星を見ているようだ。
「……貴女は神の奇跡を信じていないの?」
リリムの問いかけに、メアリはすぐに笑みを浮かべた。
「信じているわ! もちろん。私はシスターだもの。ただ、研究者として、『神の奇跡とはなんだったのか』という問いに向き合い続けているだけ」
「聖書通りなら、石からワインとパンを生み出してるね」
「なにかの暗喩と考えるのがいいでしょうね。石を食べ物に変える、死からの復活、そして出生の奇跡──処女受胎」
処女受胎。──マリーに課せられた、いつかの役割。
その単語を耳にすると、胸の奥がぎゅっとする。
「ただのおとぎ話だった? これほどのひとびとを巻き込んだ、世界的な創作話? それはそれでロマンがあるけれど、やはり私としては実際にいたひとびとの歩みの物語であり、同時代人の教科書だったと思うわ。
でも、その歩みの物語は長い時間を経るほどに、きっと『こうだったかもしれない』という願いや夢が込められてしまったでしょう。それだって悪いことではないわ。宗教は生きるひとびとの支えになってこそだから。
でも、わたしは『どこからどこまでが事実なのか』を探りたい。それが研究者の性というものよ。そうやって事実を把握した上で、我らが父がどのように世界を育もうとされているのかを、わたしは知りたいと思うわ」
聖書に関する考察を語るメアリの横顔からは、自分自身のしごとに対する誇りと、神への信仰が見えた。
ドームをぐるりと一周したところで、マリーとリリムは改めてメアリと向き合う。
「はい。わたしからの解説は以上よ」
「ありがとうございました!」
「専門家の考察が聞けて興味深かったよ」
リリムと一緒に感謝を伝えると、メアリはうれしそうに笑った。
「楽しんでくれてなによりだわ。それじゃあ、ホテルへ向かいましょうか。あら、ちょうどあそこにタクシーが停まってるわね。声をかけてくるわ」
「よければ簡単に食事ができるところへ寄ってもらえないかな? お腹減っちゃって……」
リリムがメアリにそんな話を切り出した。リリムもごはんは食べるけれど、そこまで食欲旺盛というわけではない。おそらく、マリーの腹時計のことを考えてくれたのだろう。ちょっと気持ち悪いくらい、この相棒はマリーの体調を把握している。
「ああ、ごめんなさい! たしかに、修道院ならもうお夕飯の時間ね。ここは観光地だから少し歩けばレストランも屋台もあるけれど……わたし、予定があってお食事までは一緒にいられないわ。どうしましょう……」
「なら、ホテルまでは自分たちで行くよ。事前に住所も連絡してもらってるから」
「あら、そう? それじゃあ、タクシーはここに連絡しなさい。教会が使っているところで安全だし、支払いも教会が持つから」
「わあ! 助かります!」
「子どもだけで歩くには、治安が良いとはいい難い場所だからね。……少しでも良くなるよう、奉仕活動は続けているのだけれど……やっぱりすぐには難しいわ」
それは、うすうすマリーも気がついていた。観光地であるダマスクス門から『嘆きの壁』、そして『岩のドーム』の周辺には、移民の子どもたちが寄付の声掛けをしたり、観光客相手に花やお菓子を売ったりしていた。ぱっと見て衣類は粗末ではないけれど、一般的な生活とは言えない背景を抱えていることは、身だしなみや仕草、発音ですぐにわかった。マリーも一応は修道女見習いだ。そういうひとびとに対して、かわいそうだな、と思う気持ちはある。
けれど、イザベラからは安易に施しをしてはいけないと言われていた。食べ物を施すのではなく、どうやって食べ物を得るのか、その支援をするのが本当の奉仕だと、イザベラはいつも言っている。
マリーが、そして一般的な修道女ができるのは、せいぜいつらい気持ちに寄り添って話を聞くことくらいだとも。自分がなんでもできる恵まれた人間だなんて思ったら、一晩くらいはお説教された。
「そうですよね……」
「物質的な面では、どうしても支援は限界がある。……でも、精神的な支えは違うわ。だから宗教が、神さまがいるのだとわたしは思うの」
「はい、そうですね」
マリーの素直な返事に、メアリは大きな笑みを浮かべた。上品なイザベラの笑みとは違って、少し幼く見える。
「いい子ね、マリーちゃんは。……別れるのが辛いわ。なにか困ったことがあったら、遠慮なく連絡をちょうだい。わたしは普段、ナザレの教会で研究してるから、帰国前にでも声をかけてくれると嬉しいわ」
「ありがとうございます!」
メアリはマリーに連絡先が書かれた名刺を渡して、大通りに停まっていたタクシーでさっと移動してしまった。
なにからなにまで親切なひとで、知らない土地では大変ありがたいひとだった。
でも。
「……リリムは、シスター・メアリが好きじゃないですか?」
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