25 運と幸福
日本語、だと思う。残念ながらマリーに日本語はわらかない。
『保護者は今日はいないんだ。僕たちは教会からのお遣いでここへ来てる』
リリムが流暢に言葉を操って返事をすると、女性は両手を合わせて笑ってくれた。
「貴方たちがシスター・イザベラからのお遣いね! わたしは機関からお迎えに来たシスター・メアリよ。エルサレムのことならなんでも聞いてね」
今度は英語になって、ようやくマリーにもわかるようになった。笑顔の優しそうなひとだと思う。けれど、リリムはちょっと警戒している。ちっとも笑顔が崩れなかった。
「こんにちは、シスター・メアリ。僕はリリム。マリーのサポーターだ。今回はよろしくね」
「私はマリエッタです。どうぞマリーとお呼びください」
二人であいさつをすると、シスター・メアリは満足そうにゆったりとうなずく。
「ふふ。シスター・イザベラの自慢の育て子ね。ずっと会ってみたかったの」
「えっ、イザベラのこと知ってるんですか?」
「ええ。同じ修道院に入所した同期なの。修行後、彼女はエスコリアル修道院に配属されたけれど、わたしは研究職でね。今もナザレの教会で聖書研究をしているの」
「そうだったんですね」
イザベラの同期なんて、考えたこともなかった。けれど、イザベラにだって若いころも修行時代もあったはずなのだ。きっとすっごく美人で強かったんだろうな。
「さて。マリーちゃんにリリムくん。依頼主とのミーティングは明日の午前中だし、せっかくだから今から少しだけエルサレム観光に行かない?」
「わあ! 大賛成です!」
思いもかけない提案に、マリーはその場で飛び上がった。隣でリリムがじっとりとした目で見てくる。
「……気持ちはありがたいけど、僕たち、移動で疲れちゃった。雨の中を移動するよりホテルで休ませてもらいたいな」
「あら、そう? じゃあ、一度ホテルに荷物を置いて、マリーちゃんとわたしで行きましょうか」
メアリがあっさりと言ったので、リリムが口をつぐんだ。
「……イザベラさまから、マリーをひとりにしないことを厳命されてるんだ。マリーと僕はワンセットで考えて」
「あら、そうなの?」
メアリが確認のためにマリーへ視線を向けてくる。リリムの話が本当かはわからないけれど、なんだかイザベラが言いそうなことだ。うなずくと、メアリは指先をあごにあててうーん、とうなった。
「……それじゃあ、間を取って近場で一カ所だけ見学に行きましょうか。今日を逃したら、場合によってはどこも見られずに帰国することになりかねないでしょうから」
確かに、メアリの言うことも一理ある。マリーは初任務で、もし怪我などしたら──そんなことありえないとは思っているけれど──間違いなくリリムが強制送還させる。さらに言うなら、もしリリムが怪我をしても強制送還だ。マリーだってとても楽しめないと思う。
「でも……」
「エルサレムはカトリック教徒にとっても重要な土地よ。イエスさまの道行きをたどることは、きっとふたりにとっていい勉強になると思うの」
マリーの勉強のため、と言われては、リリムだって反対できない。小さな口を閉じて、じっとメアリを見つめている。
というか、なんでリリムは頑なに観光に反対しているんだろう。リリムはたしかにインドア派だけれど、観光が嫌いなタイプではない。
「……たとえば、どこに行くんだい?」
「そうね。やっぱり最重要なのは聖墳墓教会じゃないかしら。聖職者がエルサレムへ来たのなら、立ち寄らないわけにはいかないもの」
聖墳墓教会──イエス・キリストの墓とされる場所に建つ教会。ゴルゴダの地ともされていて、まさにカトリックの聖地だった。
リリムが眉をひそめる。そうか、リリムは淫魔だから、そういう場所に行きたくないんだ。普段いる修道院や教会はいつも平気そうにしているけれど、さすがに聖地は避けたいのかもしれない。
なら、私がなんとかしないと!
「えっと、えっと。お勉強も大事なんですけど、もうちょっと見た目が観光っぽいところとか……あ! オリーブの丘とか行ってみたいです!」
「ううん、あそこ、少し遠いのよね。今から行くと帰ってくるのが夜になっちゃうかも……」
「……なら、『岩のドーム』は? あそこなら見た目も派手だし、マリーの勉強にもなると思う」
リリムの提案に、メアリがにこりと笑った。
「そうね。距離も聖墳墓教会の傍だし、悪くないわね。じゃあ、行きましょうか」
メアリが快活に笑って、シェルートという乗り合いタクシーの乗り場へ向かう。
すると、ちょうどよく雨が止んだ。
厚い雲が嘘みたいに引いていって、すぐに秋の穏やかな陽光が大地をあたためた。雨に濡れたはちみつ色をした建物がきらきらと光って、とってもきれい。
「わあ! ラッキーですね!」
「これもマリーちゃんとリリムくんの日頃の行いがいいからね。神さまが配慮なさってくれたんでしょう」
メアリがやさしく笑って、停まったシェルートにマリーとリリムを案内してくれた。シェルートは乗り合いタクシーのはずなのに、なぜか満員になることなく目的地へ発車する。
「運転手のおじさんが、ちょうどダマスカス門の近くに用事があるから、そこまでならすぐに出してくれるって。運が良かったね」
メアリと運転手の会話を、リリムがそっと教えてくれた。
「なんか、さっきからちょっとラッキーなことが続いてますね。幸先がいいです!」
「そうだね。でも運っていうのは人間、あらかじめ総量が決まってるものだから、いいことが続くと悪いことが待ってるものだよ。気をつけてね」
「ええー、そうなんですか?」
リリムは真面目な顔をしてうなずいた。これは先生モードのリリムだ。
「運命、なんて人間は言うでしょ? 別にアレは、人生において具体的になにが起こってどう行動するのかがあらかじめ決まってる、って話じゃないんだ。でも、運だけはある程度生まれた時から決まってる。不運なひと、幸運なひとというのはどんな時代の、どの国にもいる。それはどうしても、生まれた時から決まっていて変えられない」
「そんなぁ」
「でもね。不運だから不幸ってコトはないんだよ。もちろん、生まれた時から重い障がいを抱えていたり、病気で長生きできないこともある。それはやっぱり、不運だよ。
でもね、それが不幸せということにはならない。逆に、幸運だからって幸せとも言えない。それはその人間の考え方や行動次第で、いくらでも変わるものなんだ。
占星術師はその生まれつきの星を見ているだけだから、あんまり彼らの言うことを鵜呑みにするんじゃないよ?」
「ふふ。リリムくんは物知りなのね? ソフィアさまから習ったのかしら」
助手席に座っていたメアリが笑った。どうやらふたりの会話を聞いていたらしい。リリムが悪魔だということは、イザベラと姉、マリー、ソフィアしか知らない。メアリの誤解も当然だった。
「リリムはソフィアおばあちゃまの家に入り浸ってますからね」
「……面白いものがたくさんあるからだよ。ソフィアさんの話は勉強になるしね」
リリムも話をあわせてくれた。ちなみに、おばあちゃまの家に入り浸っているのは本当。午後にカフェのお手伝いが終わると、かならずおばあちゃまのお店へ行く。もちろん、私も付いて行きますけれど!
「でも、実際のところは、やっぱり幸運なひとの方が幸せであることが多いんじゃないかしら。わたしは日本人だから、特にそう感じるわね。
インフラの整った社会、子どもは自由に勉強できて、明日食べるものに困ることもない。それどころか、孤児院でさえ立派な服やテレビゲームが寄付されて、パソコンだって学校から支給される。戦争もなければテロに悩まされることもない。
あんな平和な国で生まれたことだけでも大きな幸運だわ。大きな努力をしなくても、このエルサレムの移民のひとびとよりも圧倒的な豊かさを手に入れられる」
「へぇ……日本はそんなにいい国ですか?」
「ええ。安全で清潔で食べ物もおいしいわよ。いつかマリーちゃんも行ってみてちょうだい」
「はい!」
自分が日本人の遺伝子を持っているせいもあってか、日本は前からちょっと気になっている国だった。いつか行ってみたいな。リリムは行ったことがあるんだろうか。ファウヌスは絶対行ったことがありそう。
そんなことを話しているうちに、走り出した車内から見える街並みが淡いベージュの直線の建物からやや古めかしい蜂蜜色の石灰岩でできた建物が混じるようになっていた。遠くにはエルサレムのシンボルである黄金色をした『岩のドーム』──預言者ムハンマドが天使を従え、天馬に乗って昇天したと言われている聖岩──が小さく見える。旅行者がイスラエルの光景をイメージする時と違わない景色だ。
ダマスカス門近くでシェルートを降り、標識に沿って道を歩く。ダマスカス門は町の北側、アラブ人地区の市場の傍にあるので、通行人や露店から中東の匂いがした。道幅も広くはないので、ひとがごった返している。
「スリもいるから、ここではちょっと気をつけてね」
メアリが先導してくれるのを追いかけながら、リリムがマリーの手を握ってくれる。一歩先を歩きながら、ひととぶつからないようにマリーを庇いながら進むリリム。ほんとにこのひと悪魔なんでしょうか?
やがて開けた場所に出ると、目の前には蜂蜜色をした巨大な壁がそびえ立っていて、さらにその壁をさまざまな人種の観光客や信者が取り囲んでいた。
その壁にほとんど隠れてしまっているけれど、向こう側には『岩のドーム』の黄金色をした丸い屋根が見える。
「おっっっっっっきい! 石が分厚い!」
「マリーちゃん、これが『嘆きの壁』よ」
「ユダヤ教では『西の壁』とも言うね」
度々リリムが悪魔だと忘れているマリーです。一緒にいすぎて特別な存在だと思っていないですね。
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