24 都市エルサレム
イスラエルは中東の東地中海沿岸にある比較的面積の小さい国で、面積は約2万2000キロメートル。主にユダヤ人が暮らしていて、国内の75パーセントほどがユダヤ教徒だ。続いてイスラム教、キリスト教の信者も少なからず生活をしている。
数多の宗教がこの地に集まる理由は、イスラエルの中心地であるエルサレムという土地の特殊性にあった。
ユダヤ教にとってエルサレムはダビデ王とソロモン王が築いたユダヤ最古の都として、キリスト教徒にとっては神たるイエスがひととしての肉体の活動を一度止め、そして復活した場所として、そしてイスラム教にとっては預言者ムハンマドが天に昇った地として、それぞれの意味で聖地とされている。
そのため、宗教間紛争も発生しやすく、21世紀に入っても戦争が断続的に続く悪い意味で稀有な場所だった。
戦争が続く国、というイメージで、マリーはてっきり二世紀くらい前の生活様式なのかと思い込んでいた。
マドリード国際空港からイスラエルの実質的な首都テルアビブのベン・グリオン国際空港まで移動して、マリーは目を丸くする。
「お、大きい……! 広い……!」
空港は、ほかの国際空港となんら遜色のないものだった。売店はもちろん、免税店、ラウンジ、飲食店とショップが軒を連ねていて、必要なものはなんでも揃いそうだ。さすがにマドリード国際空港ほどではないが、中東のイメージを覆す近代感だ。
「年間利用者数は約2,100万人、イスラエル国最大の空港と言われるだけあるね」
リリムも感心したような声を上げる。
大きな掲示板はほとんどがデジタルサイネージで、英語とヘブライ語が併記されている。英語表記がなかったら迷子確定だ。
「大丈夫だよ。僕は地球上にある文明的な文字はだいたい読めるから」
「長生きなだけありますね」
「年寄り扱いしないでくれる?」
そうは言っても、自己申告で二千年くらい生きているらしい。彼よりずっと年上という義兄ファウヌスは一体いくつなのだろう。神さまと知り合いだったりしないだろうか。
出口ゲートへ向かう途中、移動通路の大きなガラス窓から遠くに見えたのは、巨大な高層ビル群だ。マドリードなんかよりも、ずっと近代的なビルたちが天に向かってにょっきりと生えている。ネットニュースで見るマンハッタンみたい。
「僕もこの辺りには久しぶりに来たけれど、今はこんな風になってるんだね」
リリムも目を丸くして、一緒に窓の外を眺めている。
「リリム、前にここへ来たのはいつごろなんですか?」
「二千年くらい前」
「えっと……」
「まだここはイスラエル王国じゃなくユダ王国で、ローマ帝国の属国として自治を認められていた時代だよ」
「……ユリウス・カエサルの時代?」
「もうちょっと後」
賽はもう投げられていたらしい。
「二千年前って、じゃあリリムはここで生まれたんですか?」
「そうだよ。僕は当時混乱を極めたローマ帝国人とユダ王国人の欲望を受けて生まれた悪魔だ」
──艶やかなオリーブの葉が茂る丘の上。穏やかな日差しと風の中で生まれ堕ちた、穢れた魂。
一瞬、幻想のように浮かんだ光景を、リリムの少年声がかき消した。
「マリー、歴史の勉強だ。僕が生まれた時にはもう、ローマ帝国はユダヤ人を見下しはじめていて、差別が横行していた。当時の総督はローマ帝国から派遣されてきた者たちで、失政を繰り返してユダヤ人はついに独立を目指して蜂起を決意する。それがユダヤ戦争だ。7年ほど頑張って、結局負けちゃったけどね」
「……そんなに昔から戦争しているんですね。人間って」
「そうだよ。だから僕たち悪魔が生まれる」
「なんだかそれって……」
悪魔は人間の罪の塊みたい。
それを退治するのは、理にかなったことなんだろうか。
少し難しいことを考えはじめたら、リリムが笑って頭をなでてきた。
「いいんだよ。人間は欲望を我慢しなくていい。我慢ばっかりする人生なんて退屈だよ?」
「でも、欲に染まるのは良くないです」
「マリーはチョコレートがたくさん目の前に並べられて、一個も食べられない人生って楽しいと思う?」
即座に首を左右に振った。
そんな人生、生きてて意味があるんだろうか。
リリムは満面の笑みを浮かべてうなずく。
「そう。欲望は悪くない。欲に振り回されることは罪だと悪魔だって思うけれどね」
「程度の問題ってことでしょうか」
「そういうこと」
空港からは高速鉄道でエルサレム中央駅まで出る。駅も近代的で、長いエレベータの上には大型のデジタルサイネージが煌々とかがやいていた。鉄道での移動中、リリムが基本的な地理情報を解説してくれる。
「エルサレムはユダヤ山脈にある高原に位置していて、標高は約750m。ユダヤ人が住み国の産業活動を担う西エルサレムと、アラブ人居住区で歴史遺物の残る旧市街地を擁する東エルサレムによって成り立ってる。東エルサレムはとくに民族紛争が長く続いていて、今は停戦状態になっているとはいえ観光客も警戒した方がいい区域だ」
「……でも、いろいろな宗教にとって大事な場所です。私も、宗教を学ぶ者として興味があります」
「素直に観光したいって言ったら?」
「言ったら連れて行ってくれます?」
小首を傾げてお願いしてみたら、リリムは嫌そうな顔をした。マリーのおねだり顔を見てそんなリアクションをするのはリリム以外にはいない。
「……悪魔をわざわざ聖地巡礼に誘う?」
「嫌ならいいですよ。ひとりで行きます」
「僕、今危険な地域だって言ったよね?」
「でも観光地です。今は一応停戦状態ですし」
リリムはため息を一度吐き出す。
「……ちょっと考えとく」
あれ、とマリーは目をまたたかせた。
たいてい、こういう時はリリムが折れてくれるのに。行きたくない理由でもあるのだろうか。
ようやくたどり着いた駅舎から外に出る。エルサレムの駅前は、観光サイトで見るよりもずっと近代的な雰囲気だった。高層ビルはないものの、グレーの真新しい石畳に線路が通っていて、街中をLRTという路面電車が走っている。蜂蜜色をした石灰岩の建物は二階か三階建てで、大きなショップやレストランが並んでいた。
空は曇天。大粒の雨が乾いた大地にばたばたと叩きつけられていた。寒い。修道院から支給された茶色いコートはぺらぺらで、心持ち風よけにはなっているかな、くらいにしか感じられない。
ネットで調べたらスペインと同じくらいの気温だと書いてあったので、いつも通りの服装で来たのが間違いだった。
「寒そうだね。大丈夫?」
リリムが手をつないでくれたので、そこから必死に暖を取ろうとぎゅっと握る。多少はマシだ。でもリリムはさほど体温が高いわけでもない。
「秋のエルサレムは雨期の直前で、朝晩は冷え込みはじめるんだ。まだ寒いなら抱きしめてあげようか?」
「…………」
リリムはわりにスキンシップが激しい。特別な意味はなく、淫魔の習性なのだと思う。エスコリアルの町ではいくら触られても気にはならないけれど、遠出をした時はやっぱり抵抗があった。ちょっと照れる。
「……それより、駅舎の中に戻りましょうよ」
「ここで協会のひとと待ち合わせしてるんだよ。エルサレムを案内してくれるらしい。修道服なんか着てたら目立ちそうなのにな」
リリムがスマートフォンを片手に辺りを見渡す。すると、ひとりの日本人女性が近付いてきた。
見た目はそっけないTシャツとジーンズで、マリーと同じ黒い髪を背中に流している。眼鏡の奥の瞳も黒くて、それでも、自分のものとは少し違うな、と思った。見た目は30代くらいだが、東洋人の年齢はわかりづらい。もっと下かもしれないし、もっと上かもしれない。
女性はマリーとリリムと視線をあわせるために、少しかがんでくれた。
『こんにちは、ご両親はどちらにいらっしゃるの? 迷子?』
この話は現代より少しだけ未来の設定なので、各種紛争は一時停戦状態になっています。
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