22 マリー、15歳
長く、黒い髪が修練場にたなびく。
エル・エスコリアル修道院内の修錬場は石灰石造りのただの広場だ。古い場所だが『グノーシス調査機関』の魔術師による結界で強化されているので、マリエッタクラスの剛腕が思い切り殴らなければ、ヒビひとつ入らない。
白く補強された空間で、マリーは一歩、大きく踏み込んだ。
シスター・イザベラの懐に飛び込み、腹部に拳を入れる。簡単に手のひらで防がれて、逆に拳を握られた。そのまま腕ごと投げられ、地面に叩きつけられる。身を捻って受け身を取ったが、それでもダメージはあった。
呼吸を吐き出す一瞬の硬直を見逃さず、イザベラは容赦なくブーツのかかとでこちらの頭を踏み抜こうとする。バランスを崩そうとイザベラの腕を思い切り引いて転がそうとしたが、その細身は全く崩れなかった。
がつり、と顔の横にイザベラのヒールが突き刺さる。
「まだまだですね、マリー」
「……参りました、シスター・イザベラ」
現場を退いてなお、最強の悪魔祓いの実力は健在だった。
イザベラに手を引かれて立ち上がる。
もうイザベラの肩に届くほどに身長が伸びた。
スペイン国内だと小柄な方だが、コンプレックスを抱くような体ではない。細身なのも、成長すれば肉がついていくものだ。今は気にしていない。
この修錬場で鍛錬をはじめたのは、6つの時からだ。早朝に鍛錬、朝食を挟んで午前中は勉強、午後は町や修道院のお手伝い。たいていはそうやって過ごしてきた。
リリムが来てからも、ずっと。
稽古を付けてくれたイザベラに礼をして、息を吐き出す。心技体、いずれも成長したつもりだが、それでもイザベラには永遠に勝てる気がしなかった。
イザベラは余裕の笑みを浮かべてゆったりとした足取りでこちらへ近付いてくる。マリーは動きやすいよう、Tシャツに短パン姿なのに、イザベラはいつもと同じ修道服にベール姿だ。それでマリーより速いのだから、彼女は悪魔かなにかと契約でもしているのではないかと疑ってしまう。
「マリー。貴女は15歳の誕生日を迎えました」
「はい」
マリーは2カ月ほど前に誕生日を迎えていた。
機関にとって、15歳は成人の年齢だ。
もちろん、スペイン王国の成人年齢は18歳で、法的に成人の権利と義務を負うわけではない。ただ、機関の習わしとして、一人前の調査人として扱われる。
「貴女に、初任務を任せます」
穏やかなイザベラのまなざしに、マリーの背筋が伸びる。長身のイザベラをまっすぐに見上げた。
「詳細はメールで送っています。部屋に戻って確認を」
「はい!」
「……マリー。今は調査人見習いとして扱いますが、それは貴女の今後を考えてのことです。自分には無理だと思ったら断って構いません」
イザベラの銀の瞳が、わずかに揺らいでいた。こんなイザベラは珍しい。
マリーが今後、聖母マリアのクローンとして機関や悪魔から狙われることを考えて、身を守る経験を積ませようとしているのだろう。
相変わらず、過保護な母である。
「わかっています。私、まだ調査員になるかどうかも決めてません。ただ、ここまで育ててくれた修道院のみんなのしごとを少しでも手伝おうと思っているだけです」
修道院のみんな、というか、イザベラのため、というか……。
それを本人を前にして言うには、ちょっと恥ずかしい。もう昔みたいに、イザベラにべったり甘えてなんでも言えるほど子どもではなかった。
けれど、イザベラはなにも言わなくてもマリーの気持ちを察してくれたらしい。普段は落ち着いたまなざしに、やさしい光が混じる。
「……そうですか。それでこそ、私の娘です。……頑張ってきなさい、私の小さなマリエッタ」
更衣室で白いシャツと黒のワンピースに着替えて、髪をバレッタでまとめ直し、その上からベールを被る。見習い修道女として定められた姿だった。
マリーは対外的にはまだ修行中の身だ。ただし、長らく修道院が運営する孤児院で過ごしてきたので、すでに司祭レベルの知識は備えている。法的成人年齢を迎えればいつでも修道女となれる状態である。
修錬場を出ると、出入り口に一人の少年が立っていた。金の髪がさらりと風に揺れて、アイスブルーの涼やかな瞳がマリーをとらえる。
「リリム!」
名前を呼ぶと、俳優かアイドルみたいな華やかな顔にやさしい笑みが浮かんだ。マリーの成長にあわせているのか、彼の肉体も15歳程度で、マリーと同じくらいの身長だ。すぐに視線が合う。
「マリー、訓練は終わった?」
「はい。リリムがここにいるのは珍しいですね」
修練場はいくつも結界が張られていて、その中には悪魔を退けるものもある。リリムは実体を持った悪魔で、近付くだけで消滅なんてしないけれど、いつもは近寄りたがらない。
「ちょっと、イザベラさまに呼ばれててね」
「イザベラに?」
首を傾げていたら、修練場からイザベラが出てきた。
「ああ、リリム。来てくれてありがとう」
「いえ、イザベラさまがお呼びとあれば、どこへでも赴きますよ」
リリムは大げさな仕草で頭を下げて、イザベラの手を取って指先に口付ける仕草をする。本当にしているわけではない……とは言え、面白くはなかった。
なんですか、いっつもイザベラ、イザベラって! この淫魔!
悪口にもならない事実を胸の中で唱えて、じろりとリリムをにらみ付ける。
「なに、マリー?」
「べっつにー? それで、ふたりでどんな話をするつもりだったんですか?」
マリーとリリムを見ていたイザベラは、薄く笑みを浮かべた。
「マリー、貴女が受ける任務について、リリムに協力をお願いしようと思っていたんですよ」
「え? 悪魔祓いの任務に悪魔を連れて行くんですか?」
それってどうなんだ、と思ってリリムを見たら、案外涼しい顔をしていた。
「……別に構いませんよ。シスター・イザベラの頼みであれば、よろこんで」
「ありがとう、リリム。でも、手伝うのは私ではなくマリーですよ」
「別に構いません。美しい女性からのお願いは断れないものです」
よくもまあ、薄っぺらい言葉が次から次へと出てくるものだ。
マリーは知っている。リリムの修道院に来る前までの生活手段を男妾と言うのだ。この前小説に出てきた。
でも、その生活態度を修道院でするのはやめてほしい。子どものころならかわいいで済まされていたけれど、最近、なにやら本気にする修道女が出てきてちょっとモメかけている。リリムにとってはただの習慣なのでそそのかしている気もなく、宣誓を破ったことにはなっていない。
悪魔というのは本当に、いるだけで人間の欲を刺激するらしい。
ただ、その悪魔を手球に取っているイザベラは、本当に善き道を行く神の女なのか。最近、ちょっとその辺りが怪しく感じるマリーである。
「けど、僕が一緒に行ってなにか役立つことがあるんでしょうか? 自分で言うのもなんですけれど、僕は暴力についてマリーには敵いませんよ」
「マリーは優秀ですが、はじめての現場では精神面でまだ不安でしょう。サポーターを付けてあげるのが通例です。マリエッタの時は私がサポートしましたが、最近、飛行機の長距離フライトが堪える体になってきまして」
「気圧に負けるような体の造りしてないでしょ……」
さっきマリーを床にぶん投げておいて白々しい。忙しいなら忙しいって言えばいいのに。
「そういうわけで、精神面や生活面で支えてあげてください。マリーを国外へひとりでやるのははじめてなので」
「ああ、なるほど。それなら僕でも役に立ちそうですね」
リリムは笑ってマリーを見た。
世間知らずのお嬢さんの面倒くらい見てあげる、と言わんばかりだ。リリムのくせにムカつく。
「それではふたりとも、任務先での無事を神に祈っていますよ」
「あ、僕はいいです」
新章です! 少しだけおねえさんになったマリーと相変わらずのリリムで、悪魔祓いへ出かけます。仲良し二人組の道中をお楽しみください。
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