16 それは世界の理
聖言──『聖なる言葉』は聖書からの言葉を引用し、神から借りた『聖なる力』で悪魔を屈服させるものだと言われている。おそらく教会や機関でも同じだろう。
ただし、リリムの解釈は少し違う。
「聖言は、この世界が『善き場所』であろうとしている動き、というかエネルギー、みたいなものが込められた、ただの表現物なんですよ。悪しき存在である悪魔と相性が悪いのは事実ですけれど、表現物を使う行為自体は、世界が罰するようなコトじゃないんです」
「リリム、言ってること全然わかんないです」
「マリーは、そもそも教会や機関の解釈の方を先に勉強しないとね」
マリーは理解不能と投げ出したが、イザベラは違うらしい。
少し考え込んで、浅く何度もうなずいた。
「……なるほど。私たち教会の信者は、神が絶対的な万物創世主であり、『神は全ての悪魔を悪だと判じている』ということが前提となっています。ですが、リリムが言っている解釈は神よりも世界の方が上位存在であり、善悪も神ではなく世界が決めている、ということですね」
「ええ。僕の話は、『この世界そのものが、世界のあり方を決めている』『神は人間が生み出した精神的な支柱』という解釈に基づいています。事実かどうかはわからないけれど、ひとまず聖言が使えているってことは、その解釈を世界は受け入れているんでしょう。もっとも、効果を見る限り、満点じゃないけど部分加点って感じかな」
リリムが扱う聖言は、やはりしっかりと修行した司祭や、イザベラやマリエッタのような悪魔祓いと比較すると威力がない。せいぜい人間の体から強引に悪魔を追い出す程度で、消滅させるなんてことはできない。
人間から悪魔を追い出すのに、リリムでも半身が灼けるのだから、割に合わなくて誰も使ったりしないのだ。
「……そうした解釈は、悪魔の間では一般的なのですか?」
「さあ? あんまりこういう話は悪魔同士ではしないんですよね。魔術とかは僕の趣味でいろいろと調べてるだけなんです。悪魔が使う魔術から人間が扱う錬金術、最後には悪魔祓いまで、古今東西の神秘を学んできました」
聖書も旧約聖書はもちろん、マイナーな新興宗教の経典もかじったし、過去には悪魔崇拝の経典なんかをわざわざ調べたこともあった。
リリム的には、自分の親戚の自伝が面白おかしく伝えられているのを笑いながら読んでいる感覚だったりする。
あの見た目も中身もわりに情けない感じのサタンが、どこもかしこもすごく格好いい悪魔の王として描かれている。あれは笑うしかないでしょ。ファウヌスの方が百倍賢くて格好いい。
リリムの雑な説明になにか言いたい顔をしていたイザベラだが、全部飲み込んで、うなずいてくれた。もしかすると、リリムの体を慮ってくれたのかもしれない。
「……ひとまず、承知しました。思いもかけず、マリーの家庭教師としては大当たりを引いたようです。マリーは経典の解釈や歴史を覚えるのが苦手のようなので」
「貴女にそう言っていただけたなら、穀潰しみたいな趣味も続けていて良かったです」
「ひとまず、ソフィアとマリーを助けてくれてありがとうございます。リリム。……その献身に報いるために、できる限りの便宜は図りましょう」
「では、イザベラさまと一夜を過ごすいたたたたたたたた! マリー痛い!」
くっついているマリーが全力で腕に力を込めてきた。マリーは調査員候補として体を鍛えているのか、同年代の女の子にしては力強い。
「このまま私が看病してあげます! それでいいでしょ!」
「冗談だよ! こんな状態じゃ寝てる以外になにもできないってば!」
「じゃあ私が一緒に寝てあげます!」
「ええー……?」
「不満ですか⁈」
「だって、一緒に寝たら少しは精気をもらうことになる。少しと言っても一晩だから、子どもの体力だとちょっと心配だよ。日中も疲れて動けないかも」
「大丈夫です! 少しくらい動けなくてもいいですよね、イザベラ!」
マリーは元気よくイザベラを見上げた。イザベラがあわく微笑んでいる。
えぇ……娘に淫魔の添い寝を許可するの?
「ええ。その程度でリリムの状態が良くなるのなら」
「……それでも三日はかかりますよ」
「じゃあ三日間リリムにくっついてあげますよ!」
「ええー」
「仲良く過ごしてくださいね。リリムの体が治るまではケンカも禁止です」
「はい!」
「……はーい……」
これ僕、完全に子ども扱いになってるな?
二階へ上がって、自室のベッドに腰掛ける。
この孤児院へやって来て、二日目の夜だ。二日目にしてはいろいろとあったな、と思う。
疲れた。
シャワー……できればバスタブに浸かりたいけれど、この館にはバスルームがなかった。湯船に浸かる文化はヨーロッパでは珍しいので、こればかりは仕方がない。それに、今のリリムは左上半身が聖言焼け──悪魔の間では『聖なる言葉』に焼かれた傷のこと──していて、ほとんど感覚がない。どの道、治るまではシャワーも風呂も禁止だ。
思わずベッドに横になると、大きなアーチ窓から空が見えた。ちょうど半月がかかっていて、月の光に負けて星灯りはわずかしか見えない。修道院と町を囲む森の中で、鳥やリスなどの小動物がかさかさと動いている気配が感じられた。
それくらい、静かな夜だった。
その静かな夜を、元気な声が割って入る。
「リリムー! 入りますよ!」
ノックもせずに扉を開けて、マリーが部屋に入って来た。淑女にあるまじき行為だ。リリムは思わず体を起こしてマリーをにらみ付ける。
「マリー、ノックは身内の間でも大事なマナーだよ。僕が着替え中だったらどうするの」
「別に気になりません」
「じゃあ、僕がノックせずにマリーの部屋に入って着替え見ちゃったらどう思うの?」
「リリムはそんなことしません」
「いや、そうなんだけど……」
自分がされた嫌なことは、相手にもしたらダメなんだよ、という幼児に対する説教はマリーに向かないらしい。今後リリムが請け負うはずの教育方針を一考する必要がある。
マリーは眉間に皺を寄せたリリムをどう思ったのか、わざわざ怪我のない右側に回って抱きついてきた。
「リリム、傷が痛むんですか? 大丈夫ですか?」
「あー……うん。見た目ほどじゃないよ」
……本当に、いい子ではあるんだよなあ。
マリーはシャワーを浴びてきたらしく、白い綿の寝間着を着ている。髪もしっかり乾かされていて、艷やかな黒髪がふわふわになっていた。花のような匂いがして、少し気持ちが落ち着く。
「しばらく私が一緒に寝てあげますから、早く元気になってくださいね」
「……本当に一緒に寝るの?」
「はい! その方がリリムの回復につながるんでしょう?」
「そうだけど……」
淫魔は異性の体液から精気を摂取して、それをエネルギーにする。
そちらが基本だが、もうひとつ摂取方法がある。相手の夢から精気を吸収することだ。
夢は本人の隠れた感情や欲求が精神空間で映像化されたもので、精気の塊と言える。夢を全て奪えば相手を殺せるし、少し摂取するだけでも性行為と同じ程度の精気を得ることができた。
どちらも実行する淫魔だっているが、精気には体力も含まれるので、健全で健康な若い女性を相手にしないと奪いすぎて相手の体を害してしまう。リリムの好みは歳上なので、精気と夢を同時に摂取することはほとんどなかった。
今まで相手の体調を考えて精気を摂取してきた小市民のリリムは、相手が幼女だからと言って精気を吸いすぎることはない。それを見越してイザベラもマリーを自由にさせているのだろう。
それでも、マリーと同衾するのは抵抗がある。
少年の姿をしているが、やはりリリムは二千年生きた淫魔なのだ。
淫魔なのだから、当然女性たちとアレコレと卑猥なことをしてきた経験が豊富だ。こんな女の子が無防備に一緒に寝て良い相手ではない。
「やっぱりマリーにとっては良くないと思うんだよね……」
「なんでですか? イザベラもいいって言ってましたよ」
「そうだけど……マリーがこの先、好きなひとができた時に申し訳ない気持ちになるよ」
そう言ったら、間近にあったマリーの夜の瞳がぱちぱちとまたたいた。
「どうしてですか?」
「だって、マリーに好きな相手ができた時、僕と一緒に寝たことあるんだ、なんて言ったら相手は嫌な気持ちになるよ」
「そうですか? お友だちと一緒に寝るくらいでガタガタ言うひとなんて、私は好きにならないと思います」
「今はまだマリーはわからないだろうけど、誰かを独り占めしたいな、って思うのが恋愛なんだよ」
「ふーん……リリムはそういうの、思ったひとがいたんですか?」
「……うーん……どうかな……」
あったような、なかったような……。
リリムにとってはリアルに、「これまで食べてきたパンの数を覚えてるの?」という話だ。なんだったら水の量かも。
リリムのあいまいな返答をどう解釈したのか、マリーがふふん、と小さな鼻を鳴らした。
「じゃあ、リリムも初恋はまだなんですね」
「そう言われると、淫魔としてはすごく抵抗を感じるな」
「私もまだですから、おそろいですね」
「そうかなあ……」
「じゃあもう寝ましょう、リリム。私眠いです」
自由に生きてる子だなぁ。とは言え、マリーを夜ふかしさせるわけにもいかない。結局、マリーを抱えてベッドに潜った。
マリーの体はあたたかくてやわらかい。こんなにやわらかい肌と一緒に眠るのは、本当に久々だ。
「ほんと、マリーっていい匂いするね。すごく落ち着く。どこのシャンプー?」
「修道院の支給品ですよ。昨日リリムも使ったんじゃないですか?」
シャワールームには石鹸がひとつだけ置いてあった。悪い品ではなかったし、確かにハーブの香りがついていた気がする。けれど、マリーから漂う香りとは少し違う。
「えー、使ったけど、こんなにいい匂いじゃなかったよ。どこのやつか教えてもらおうかと思ったのに」
「そんなに気に入ったんですか?」
「うん。この匂い、すごく好き」
そう言ったら、腕の中でマリーがくすくすと笑った。
「私も、リリムの匂いは好きです。なんか落ち着きます。おねえさまの次くらいに好きですよ」
「それは光栄だね。でも、そんな簡単に男に『好き』って言ったらダメだよ」
「どうしてですか?」
「だってマリーはかわいいからね。『好き』って言われたら、なんでもしてあげたくなるし、なんでもあげたくなるよ」
「じゃあ明日から毎食後にチョコレートください」
「だーめ」
「かわいい私のお願いなのに?」
「僕は悪魔だからね。かわいい子にいじわるしたくなるの」
笑って言うと、マリーが頬を膨らませる。
「リリムだって、すぐ『好き』って言うくせに……」
「僕はちゃんとわかってて言ってるの。大人の恋の駆け引きだよ」
「ふーんだ。イザベラには相手にされてないくせに」
「恋の勝負はすぐには決まらないものだよ?」
「うーん、もう眠いです、リリム。頭なでて寝かせてください」
「マリーは本当に自由だね……」
まあ、すっかりその自由さに馴染んでしまったけれど。小さな身体を、小さな腕で抱きしめて頭をなでた。マリーのまぶたは半分ほど落ている。
「おやすみ、マリー」
「はい、おやすみなさい、リリム。……ねえ」
「ん?」
「やっぱり私は、リリムのこと好きですよ」
マリーはうつらうつらとする中でそう言って、すぐに夢の世界へ入ってしまった。
「……ふふ。ありがと、マリー」
幼子からの好意なんて、いつぶりだろう。
それがただの友情であっても、リリムにとってそれは、やっぱりうれしかった。
マリーは寂しがり屋なので、一度懐くととことん甘え倒すタイプです。
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