15 泣かないで
「なんで……リリムは悪魔なんですから、『聖なる言葉』なんて口にしたら消滅しちゃうに決まってるじゃないですか!」
「まあ、そうなんだけどね……」
とっさの判断だった。
万全の状態のリリムならこんな酷い状態にはならないが、あいにく今は精気不足で弱っていたので肉体の方が保たなかったらしい。
ブチ切れていたのもあるし、久々に口にしたので加減も忘れていた。仕方がない。
「泣かないでよ、マリー。見た目は酷いけど、今すぐ消滅するほどの重症ってわけでもない。休めば治るよ」
「ほ、ほんとうです……?」
マリーはまだ泣き止まない。それどころか、ついにしゃっくりを繰り返すようになってしまった。ただでさえ打たれて赤くなった頬が、涙に濡れてぼろぼろになっている。
それを見ていると、リリムの方が辛くなってくる。体よりよほど痛い気がした。
マリーの頬を右手で包んで、涙に濡れる夜の瞳をのぞきこむ。
「大丈夫だよ。いくら僕の悪魔としての位が低くても、あんな雑魚悪魔を相手にして消滅したら本当の恥だ。じいちゃんにも顔向けできないよ」
「でも……じゃあ、このやけどみたいなの、どうやったら治るんです……?」
「休んだら大丈夫」
……もっとも、それなりの精気は必要だが。
大人の姿であれば、それこそひとりかふたり、女性と一晩過ごせば見た目は回復できたはずだ。
子どもの姿は燃費はいいものの、そういった行為には不向きである。女性の方もよほど特殊な趣味でなければ気持ちも向かないだろう。ちなみに、そういう趣味の女性はリリムの好みではない。
どうしたものか。
ついに意識が遠くなっていくのを感じていたら、ふいに唇に甘いものが触れた。
マリーの柔らかい唇の感触が、なんの躊躇もなく与えられた。
「……ッ?!」
色気もなにもあったものではない。犬猫にするようなキスだ。
ペロリと唇をなめられて、マリーの唾液が付着する。
ぅ、わ……すごくおいしい……!
頭も唇もしびれるみたいだった。甘いあまい、はちみつに砂糖を混ぜたみたいな味が脳の奥まで届きそう。花のような香りも鼻腔をくすぐる。これはマリーの匂いだ。期待に胸がどきどきと高鳴る。
──もっと、欲しい。
そんな強い欲求が湧き上がるけれど、それでも、昨夜のような失態だけは見せないように必死で理性をつなぎとめる。ぎゅっと目をつむって深呼吸してから、マリーの体を震える腕で引き剥がした。
「だ、だめだよ、マリー! こんなとこで、こんな簡単に男にキスしたらダメだ!」
「いいんです! リリム助けです!」
何度も必死に唇を押しつけられて、少しは意識がはっきりしてきた。唾液のほかにも、しょっぱい味がする。
「マリー、涙だけで、いいよ……」
「っ、涙でも、いいんですか……?」
「体液って意味では同じだからね」
けれど、涙はあまりおいしくない。しょっぱいし、マリーの涙はなんだか甘苦い。
昨日からマリーを泣かせてばかりいる。マリーが泣いているのはもう嫌だな、と思った。
「じゃあいっぱいあげます! 早く良くなってください!」
「うん……」
マリーがきゅっと体に抱きついてきて、頬に頬をくっつけてくる。涙が唇を湿らせていって、どんなに思うところがあっても、やっぱり今のリリムにはありがたい。ひりついていた肌の痛みが少し和らいでいる気がする。軽い火傷したばかりの時に冷水を付けて肌を冷やしている、みたいな感じ。
「……マリー、リリム? 大丈夫ですか?」
店の外から、聞き慣れた声がした。
シスター・イザベラの声だ。
──やっと来た。
「……遅かったですね、イザベラさま……」
声を上げると、扉を開いたイザベラがこちらの様子に気がついてさっと近寄ってくる。泣いていたマリーの表情に驚きと安堵が広がった。
「イザベラ? どうしてここに……」
「町の結界にリリム以外の悪魔の反応がありましたからね。……ここで悪魔祓いをしている気配もありました」
イザベラの後ろからほかのシスターも店に入ってきて、ソフィアの拘束を解いた。
体が自由になった途端に、ソフィアはマリーとリリムのところへ駆け寄ってくる。
「マリエッタ、大丈夫かい? 危ないのに首を突っ込むなんて、姉ちゃんがいないと本当に無鉄砲なんだから、この子は……!」
ソフィアさんはずいぶん口が奔放な女性らしい。
それでも、まだ恐怖に震える体を押して、マリーに寄り添ってくれた。いいひとらしい。リリムとも目が合う。
「……見ない子だね。でも、助けてくれてありがとう。ぼうや」
「……ぼうやはやめてください……」
本当は貴女よりずいぶん年上なんですよ。これでも。
その後、強盗は町の警察に連れて行かれた。どうやらほかの国でも同様の手口で強盗を繰り返して、国際指名手配された犯罪者だったらしい。
ソフィアも町の病院で検査を受けると聞いた。手足を縛られたところが鬱血していたし、御老体でもあるのでゆっくりしてほしいと思う。店はしばらく休業だろう。
リリムもマリーとともに孤児院へ戻った。
館の中でも、マリーはリリムからくっついて離れなかった。
リビングのソファで一息つこうとしても、ずっと涙目のマリーが抱きついてくる。目の前でリリムが焼け焦げたのが相当ショックだったらしい。
……よく考えてみれば、それもそうか。
友だちが目の前で大火傷を負うなんて、幼い少女にとって精神的衝撃が大きかったに決まっている。
とっさのこととは言え、かわいそうなことしちゃったな。
申し訳なさに、無事な右手でマリーの頭をていねいになでた。
「うう……ほんとにマシになってるんですか? 全然見た目治らないですけど……」
「マシにはなってるよ。流石にすぐには治らないってだけ」
「……無茶をしましたね、淫魔リリム」
イザベラも呆れたような声を上げて、入れたばかりのハーブティーをテーブルに置いてくれた。左腕が動かないリリムと、リリムから離れようとしないマリーを気遣ってくれたらしい。帰りからずっと付き添ってくれていた。
「悪魔である貴方が『聖なる言葉』を知っているだけでも驚きですが、使ったことにも驚きです。なぜそんなことを?」
「あそこは修道院の結界の中でしたからね」
リリムが今日町を歩いたのは、地理を把握するためだ。
──修道院をぐるりと囲う結界がどこまで続いているのか確認しておきたかった。
それが、あの町の端、ソフィアの雑貨店の辺りまでだった。
「あの結界は悪魔探知と、土地を清めるものでした。結界内でなにかしらの術を使えば、すぐにイザベラさまが気づいてくれると思ったんですよ。……ほかの術では、今の僕では少し力不足だったでしょうしね。結界内で『聖なる言葉』を使う方が、対悪魔の効果は高いでしょう?」
「それはそうでしょうが、悪魔にとっても諸刃の剣です」
「それは、まあ……」
普段ならもっと上手くやるが、今回はちょっと頭に血が上った。リリムがまだまだ若造だとファウヌスやほかの悪魔に言われる所以である。これでも、悪魔の中ではちょっと短気な方だった。
「……さすがに、こんな無茶は滅多にしません。緊急判断です」
「そうです! もうこんな無茶しちゃダメですよ! 私がやった方がまだマシです!」
「マリーの能力はマリーみたいな子どもが使うようなモノじゃないでしょ」
「リリムみたいによわっちい悪魔が戦闘に入ろうとするのが良くないんです! 二度と戦っちゃダメですからね!」
「僕だってしたくないよ……」
今回は不慮の事故だ。子どもが犯罪に巻き込まれるなんてこと、そうそうあってたまるか。
そう言いたいのをぐっと我慢して、まだぐずぐずと泣いているマリーを抱きしめた。女の子に優しく接するのは淫魔の習性である。
今のマリーの話で、イザベラもどんな状況だったのか察したらしい。こちらを見る銀の瞳が、どうしようもないお人好しだと呆れていた。浅くため息を吐き出す。
「……それにしても、悪魔が聖言を使うなど私も聞いたことがありません。どういう絡繰ですか」
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