14 聖なる子
瞬間、男の体が硬直して、ばちりと鋭い音とともに体から黒い影が弾き出された。男の意識がなくなり、そのまま床へ倒れ込む。
マリーは男の腕からするりと抜け出し、うまく受け身を取って逃げ出したのを視界の端で確認した。
「リリム!」
「マリー、仕留めて!」
リリムの声に、マリーは男の体がから飛び出した黒い影──悪魔べヒモスを振り仰ぐ。
ベヒモスは象の姿をした強欲の悪魔だ。 部屋一杯に広がる巨体で大きく前脚を掲げる。ベヒモスの威嚇行動だ。けれど、おそらくこちらを攻撃することはできないはず。
ベヒモスは、リリムのように受肉していない、実体を持たない悪霊だ。それだけに退治にはコツと準備がいるが、実体を持たないために人間の肉体から離れれば物理攻撃もできない。
そして、見た目が象であってもこれは悪魔だ。人語を解し、人間の思惑を上回る知性を備えている。
こちらにリリムという上位存在がいる以上、むやみ突撃してこないはず──
きぃいいいいいいいいいいいぃぃいいいいいいいいいい
ベヒモスが長い鼻を上下に振り回して、雄叫びを上げた。肉声ではない。超音波のように音だけで空気や物を揺らす、音ではない声だった。頭の奥がきんと痺れる感覚がする。声で脳が揺らされたらしい。ベヒモスの呪いだ。
どうも、かなり力を蓄えた悪霊らしい。生意気にもこちらにケンカを売ってくる。
まあ、逃げられるよりはマシか。
この手の悪魔は実体を持たないので物理的な足止めはできない。町のメインストリートは人通りも多い。別の人間に憑かれたら探し出すのが厄介だ。
人間を強盗にまでそそのかすような悪魔は見逃すと後々殺人などの大きな事件にも関わってくることになる。今ここで仕留めるべきだ。
「マリー、早く悪魔祓いの『聖なる言葉』を紡げ! あんまり長くこの声を聞いてると、こっちの精神がやられるよ!」
急いて声が大きくなる。聞こえていないはずがない。
なのに、マリーは攻撃態勢を取らなかった。
「マリー?!」
「だって……私、今聖水持ってないです……!」
マリーの顔色が真っ青になっている。細い体は震えていた。明らかに気が動転している。はじめて見た、『自分に敵意を抱く悪魔』に怖気付いてしまったのだろう。もしかすると、ベヒモスの呪いをまともに受けてしまったのかもしれない。こんな子どもが悪魔と突然遭遇すれば無理もなかった。
リリムは思わず舌打ちする。聖水を持っていなくても、マリーなら通常の悪魔祓いの手順で倒せるはずだ。
だって、この子は聖女の再来なのだから。
リリムはベヒモスをにらみ付けた。今はマリーが正気に戻る時間を稼ぐ!
「『暗闇を歩く疫病も、真昼に荒廃をもたらす破壊も、私の前に近付くことはできない』」
リリムの『力ある言葉』で、ベヒモスの体が硬直した。よく見れば、ベヒモスが体を動かそうと必死に足掻いていることが体の震えからわかるだろう。
今使ったのは人間が使う邪気祓いの魔術だ。先ほどの『聖なる言葉』と違って、リリムが使うのにも負担はない。それだけに、ベヒモスの動きは留められても消滅させることはできなかった。
悪魔を消滅させるには、やはり人間の善なる祈りが必要なのだ。
きぃいいいいいいいッ! きぃぃぃいいいいいいいッ!
反抗の意思表示か、呪いの声が繰り返される。リリムには不快なだけだが、マリーの背中がどんどん萎縮していくのが後ろから見ていてわかった。
「マリー、大丈夫。落ち着いて。悪魔祓いの『聖なる言葉』は覚えてる?」
「は、はい……ッ」
ベヒモスのような実体を持たない悪霊の類は、修道院で清められた聖水を振りかけて魂ごと焼くか、あるいは『聖なる言葉』で消滅させるか、いずれかしか退治する方法はない。物理で殴る方法もあるが、それはマリーの能力を使った上での話だ。今のマリーに使わせるわけにはいかない。
「今、ベヒモスは僕の魔術と町を覆う結界で動きが鈍くなってる。落ち着いて、正規の悪魔祓いの手順を踏めばマリーにもやれるよ」
不安そうなマリーがこちらをちらりと振り返る。リリムは微笑んだ。きっと、彼女はそれだけで大丈夫。
マリーは震えていた唇からゆっくりと息を吐き、再びベヒモスに視線を向けた。
もう、夜の瞳は静かにきらめくだけだ。
ベヒモスに向かって小さな拳を構える。一呼吸もなく薄い唇が開いた。
「恵みに満ちたマリアよ、主はあなたと共におられます。あなたは女性の中で祝福され、あなたの胎内の子であるイエスは祝福されています」
悪霊や悪魔を祓うための『聖なる言葉』が、幼い声で淀みなく紡がれる。
声は神性を帯び、空間に広がった。店内が淡い発光に包まれる。
一瞬、小さく握った拳に火花が散った。マリーの中の電流がぱちりと弾ける。無意識で能力が解放されているのだろうか。
ぎぃいいいいいいいッ!
聖なる気配に、動けないベヒモスが抵抗の声を上げる。マリーはもう、その声に耳を貸さない。
「神の母である聖マリアよ、罪人である私たちのために、今も臨終の時にもお祈りください。アーメン」
マリーが前方へ跳躍して、ベヒモスに肉薄する。小さな拳を黒い影に突きつけた。
ベヒモスの体を拳が突き破る。瞬間、ベヒモスの実体のない黒い影のような存在が光に包まれ──音もなくざらりと、灰のように崩れて消えてしまった。
悪魔の最期は、いつだってあっけない。きっと、リリムの最期だってこんな感じなのだろう。
ぼんやりとそんなことを思っていたら、マリーが真っ先にリリムへ近寄ってきた。さっき落ち着いたように見えたのに、情緒の忙しい子だな。
「リリム、リリム大丈夫ですか?!」
「マリーこそ、大丈夫? ああ、ほっぺが腫れてるよ。酷いな……」
「どっちが酷いと思ってるんですか!」
マリーは、泣いていた。
大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼしている。昨日みたいに。いや、もしかするとそれ以上に。
なんで? 僕、なにかした?
「ま、マリー? 泣かないでよ。どうしたの?」
「だって……だって、リリム……リリム、酷い怪我してますよ!」
「ああ……とっさに『聖なる言葉』なんて使ったからね」
──上半身の左側が、焼けこげていた。
マリーちゃんは出生からエリートシスター街道を爆進しているので、基礎教養はしっかりあります。リリムもイザベラからその辺りのことは聞かされています。
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