3.穏やかな昼
目が覚めたとき、頬にわずかな引きつりを感じた。肌に触れて、眠りながら泣いたのだと気づく。深く息を吐き出し、起き出した。窓を開けると、まばゆい光に目を細める。太陽は頂点を過ぎて、西へ傾いていた。
顔を洗い、身支度を整えると朝食の残りを少し口にする。固く乾いたパンは、それでも香ばしく、しなびた野菜は爽やかな甘みがあった。
食事のあと、昨夜のことをノートに記す。僕がアウルカになって二冊目のノートだ。毎晩の記録をつけておくのもアウルカの務めだと師匠に教えられた。
師匠には様々なことを教わった。
基本的な家事、読み書き、マナー、王城での過ごし方から、アウルカ、王家、そして勇者と魔王について。
勇者の物語は、師匠に引き取られる前から知っていた。街の広場にも立派な銅像があり、僕たちのような孤児すら寝物語に聞かされる。
勇者と仲間は協力して、世界を苦しめていた魔王を退治した。勇者は戦いが元で亡くなってしまったけれど、勇者の仲間だった王子が荒廃した国々を支え、人々に安寧をもたらした。
孤児院の修道女は勇者の物語を語り終えると、必ず言った。
『あなたたちは身寄りがないのだから、人一倍、人の役に立って、寄る辺を作りなさい』
僕は、役に立っているのだろうか?
勇者の話を思い出す度、自分に問いかけた。誰にも聞けない問いを。
書き終えたノートをチェストにしまうと、汚れ物を持って王城のリネン室に向かった。
城の裏手の林には庭師も滅多に顔を出さない。地面は枯れ葉で覆われ、踏みしだくと軽く乾いた音をたてた。
「こんにちは」
リネン室の窓辺で刺繍をしていた女性に声をかける。出会った頃はリネン室で一番の下っ端だったが、いつしか新しい侍女を顎で動かすようになっていた。
女性はチラリと僕を見やると、すぐに手元へと視線を戻した。
「いつもの場所にあるから勝手に持って行って」
「はい。ありがとうございます」
僕は短く言うと汚れ物を洗濯籠の一つに出して、綺麗に洗われた着替えとシーツを棚から出した。もう一度、礼を述べてリネン室を後にする。
林の中で駆け回るリスを見た。二匹が競うように走り、蹴り上げられた枯れ葉が笑うように鳴った。
小屋に戻ると、部屋の中を簡単に掃除した。それから井戸から汲んできた水に薬草を散らす。傾いてきた日差しの当たる場所に桶を置くと、木剣を手にして剣術の稽古をした。
夜は、なにが起こるか分からない。王さまの夢を守るためには、自分の身も守らなければならない。だから鍛えるんだ。
そう師匠に教わった。師匠と一緒に夢の散歩について歩くようになってから、一度たりとも危険と遭遇したことはなかったけれど。
他にすることもなく、ひとりになってからも暇つぶしのように稽古を続けた。
打ち合う相手もいないまま。
日が暮れてしばらく経つと、僕は洗った器を持って王城の台所へと行った。
夕食が済んでも片付けや翌朝の仕込みで、料理係たちは慌ただしく働いている。声をかけると、煩わしそうに料理を入れたバスケットを押し付けられた。
「王さまにお出しするのと同じものなんだ、有難く食べろよ」
いつもの言葉に、僕は礼を言って台所から離れた。
扉と窓を開け、星影だけで軽く夕食を食べる。宵闇に目を慣らしておくためだ。来たばかりの頃はずいぶん困惑したが、いまでは火の明かりに照らされることに戸惑いを覚えるようになった。
取り分けた夜食をバッグに詰め、夕方に薬草を散らしていた水で剣を清める。支度が終わると、王さまの寝所が見える庭へと移動した。
バラの生垣のそばに座り、王さまの寝所の窓を見張る。王さまの夢が抜け出してきたら、その夢を追って行く。夢の散歩は街の中だったり、外だったり様々だ。姿形も多様で、いまの王さまの姿もあれば、昨日のように子供だったり、お妃さまや家臣の姿のこともある。
動物であることも多く、そんなときは少し困った。人と比べて、とても足が速いからだ。鳥の姿で現れたときは、何度も見失いかけて焦った。
だけど、いつも変わらないことがあった。
それは青白く弱い光を発し、向こうが透けて見えること。
『満月の晩は気を付けろ』
師匠は繰り返し言った。明るい月光に夢が滲んで、その姿が見づらくなる。
『王さまの夢から目を離すな』
師匠に繰り返し言われた。
いまでは自分で自分に繰り返し言い聞かせていた。
その晩、夢が抜け出してくることはなかった。
次の晩も。その次の晩も。
次に夢が抜け出してきたのは、満月が輝き、その年初めて雪が舞った日だった。




