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敦はカメラのデータを全て消去し、零と静に深く頭を下げた。
「本当に、すみませんでした」
静はクラゲの水槽を眺めたあと、ゆっくりと敦へ視線を向けた。
「さようなら、お元気で」
「……」
敦は一瞬、何か言おうとした。しかし静の表情があまりにも穏やかだったため、それ以上は何も言えず、もう一度頭を下げた。
「失礼します」
そう言うと、敦は逃げるように足早にその場を去っていった。
その背中が人混みの向こうへ消えるのを確認すると、零は小さく息を吐く。
大きな水槽の中では、無数のクラゲがゆっくりと浮かんでいた。青白い光に照らされた透明な身体が、まるで夜空を漂う星のように見える。
静はクラゲの水槽へ近づいた。
そして、そっと手を伸ばす。
指先がガラスに触れた。
「……」
そのまま静は、水槽の向こうを泳ぐクラゲを見つめる。
やがて、ほんの少しだけ微笑んだ。
それは、普段の静からは想像できないほど柔らかな笑顔だった。
零は無意識に、その横顔を見つめていた。
青い光が静の髪を淡く照らし、ガラスに触れた指先が水槽の光を受けている。
「……」
零の胸が、また大きく鳴った。
ドクン。
慌てて静から視線を逸らそうとする。
けれど、なぜか目を離せない。
「……綺麗」
思わず零の口から、小さな声が漏れた。
何が綺麗なのか、自分でも分からなかった。
クラゲなのか。
それとも――。
静はまだ、水槽の中を漂うクラゲを優しい目で見つめていた。
その横顔を眺めながら、零の鼓動はなかなか収まらなかった。
♢
しばらくして、零はスマートフォンを取り出した。
今回の依頼人である山田花へ報告するためだった。
発信ボタンを押す。
数回の呼び出し音のあと、花が電話に出る。
「もしもし?朝日さん?どうでしたか?」
零は水槽の前に立つ静を一度だけ見た。
そして、先ほど敦と交わした約束を思い出す。
「はい。調査の結果ですが……旦那さんは可愛いと思った女性を見つけては、その人のあとをつけていた、だけのようです」
電話の向こうで、花が黙り込む。
しばらくして、複雑そうな声が返ってきた。
「……浮気じゃ、なかったんですね」
「はい…」
零は静かに答える。
「ただ、それでも敦さんがやっていたことは、許されることではありません」
「そうですね……」
花の声には、安堵と呆れが混ざっていた。
「夫が帰宅したら、二度と同じことをしないよう、厳しく言ってボコボコにしてやります!」
「ふふっ」
零は思わず小さく笑う。
電話の向こうから、花も少しだけ笑う気配がした。
「朝日さん、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、ご依頼ありがとうございました」
「では、また」
「はい。また」
通話が切れる。
零はスマホを下ろし、ほっと息を吐いた。
これで今回の依頼は終わった。
ふと横を見る。
静はまだ、クラゲの水槽を眺めていた。
青い光の中を、透明なクラゲがゆっくりと漂っている。
零はコートのポケットにスマホをしまいながら、静の横顔を見つめた。
「……さて」
零は小さく呟く。
依頼は解決した。
それなのに――なぜか、今夜はまだ帰る気になれなかった。




