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ある日の午後7時。
夜間営業を行っている水族館は、昼間とは違った幻想的な雰囲気に包まれていた。館内の照明は落とされ、大きな水槽の中を泳ぐ魚たちが青白い光に照らされている。水面の揺らめきが壁や床に淡く映り、まるで海の底にいるような静けさが広がっていた。
その水族館の一角に、朝日零はいた。
黒髪のセミロングを整え、コートの襟を軽く直しながら客がいる水槽、そこから少し離れた場所から周囲を観察している。
今回の依頼人は、山田花、三十五歳の主婦だった。
依頼内容は、夫である山田敦の浮気調査。
敦は現在、三十五歳で会社を経営しており、最近になって帰宅時間が遅くなることが増えたという。休日にも一人で出かけることが多くなり、花は夫の行動に疑念を抱いていた。
いま、山田花は自宅にいる。
零だけが敦を追って、この水族館までやって来ていた。
零は人の流れに紛れながら、敦の姿を探した。
そして、ほどなくして見つける。
「……いた」
黒髪で真面目そうな顔をしたスーツ姿の男、
山田敦は小魚が泳ぐ水槽の前に立っていた。
しかし、先ほどから敦の行動には妙なところがある。
敦に声をかける女性の姿が、どこにもないのだ。
敦は誰かを探すように周囲を見回しながら、館内を歩いている。
そして、しばらくすると、一つの水槽の前で足を止めた。
零も少し離れた場所から、その男を見る。
「……え?」
零の目が大きく見開かれた。
敦の視線の先、そこにいたのは、一人の男だった。
茶色の髪。
白いシャツに黒いズボンという、どこか飾り気のない服装。
水槽からこぼれる青い光を横顔に受けながら、その男は静かに水槽の中のクラゲを眺めていた。
「……斎藤さん?」
零が思わず小さく呟く。
そこにいたのは、斎藤静だった。
橋の上で雨に濡れていた刑事。
雷を怖がる零にイヤホンを渡してくれた男。
まさか、こんな場所で再会するとは思っていなかった。
しかし、零が驚いたのは静がここにいたことだけではなかった。
静から少し離れた場所で、敦がカメラを取り出したからだ。
敦は周囲を確認すると、静に気づかれないようにカメラを構える。
カシャッ。
小さなシャッター音が響いた。
敦は撮影した写真を確認する。
そこに映っていたのは、クラゲの水槽を見つめる静の横顔だった。
「キレイだ……」
敦は写真を見つめながら、恍惚とした表情を浮かべていた。
さらに一枚。
カシャッ。
また一枚。
静はそのことに気づいていない。
ただ水槽の中をゆっくりと漂うクラゲを眺めている。
青白い光に照らされた静の横顔は、普段よりも静かで、どこか儚げに見えた。
敦は夢中になってシャッターを切り続ける。
その姿を見ていた零は、息を呑んだ。
「……まさか」
花から聞いていた浮気の疑い。
夫が夜に出歩くようになったこと。
休日にも一人で出かけるようになったこと。
零は当然、女性関係を疑っていた。
しかし__。
「……あの人、斎藤さん目当てでここに…」
零は敦を見つめた。
敦の視線は、完全に静だけを追っている。
その目には、単なる偶然の出会いや知人を見るものとは違う、異様な執着が滲んでいた。
零は探偵としての表情に戻る。
そして、静のほうへ視線を移した。
本人は何も知らない。
クラゲが漂う水槽を眺めながら、ただ静かに立っている。
「……斎藤さん」
零は小さく呟いた。
まさか自分が調査していた男が、あの猫のような刑事を追いかけていたなんて。
予想もしなかった事実に、零はしばらく言葉を失っていた。




