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零と静が初めて出会った橋の上で、零と響が向かい合って立っている。
橋から見える川面には街の景色が揺れ、近くの道路を走る車の音が絶えず聞こえていた。
「私に話しておきたいことってなんですか?」
零が不思議そうに尋ねる。
響は眼鏡の位置を直してから、静かに口を開いた。
「もう弟と会わないでいただきたい」
「え……?」
零の表情が固まる。
「あなたは知らないでしょうが、静にはすでに恋人……いや、結婚相手にふさわしい、西園寺姫華さんという財閥家のお嬢さんがいます」
「……」
零は何も言えなかった。
「一般市民のあなたには分からないでしょうが、財閥家に生まれた子供は、自分の気持ちだけで結婚相手を選べるわけではない。私自身、財閥家の令嬢である妻に対して恋愛感情はありません。すべては財閥家の長男として、自分が果たすべき役割を選択したまでです」
「そんな……」
零は胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
「斎藤さんの気持ちはどうなるんです?相手が誰であれ、好きになった相手との交際を諦めろっていうんですか?」
「……」
響は答えない。
「それは、あまりにも酷です。財閥家に生まれたからと言って、感情はあるのに…」
「……」
「響さんの事情はわかります…、だけど、斎藤さんの気持ちを一番に考えて…」
「物分かりが悪いな」
「え?」
「お前と静とでは、住む世界が違うと言っているのが、まだ分からないのか?」
何も言い返せず、零は唇を噛んだ。
「父親が不在の今、斎藤家の決定権は私にある」
響は零をまっすぐ見つめる。
「弟である静の将来を決めるのも、私の役目だ」
「だからって……」
その瞬間、響はスーツの内ポケットから厚みのある封筒を取り出した。
「これを」
響が封筒を零へ差し出す。
中身が札束であることは、見ただけで分かった。
「……」
零は封筒を見つめた。
「200万ある、これで静から離れてもらいたい」
「いりません」
零は首を横に振った。
響がわずかに目を細める。
「なぜだ?」
「お金で気持ちを変えられるほど、私は斎藤さんのことを軽く思っていません」
零は封筒を押し返す。
「もう二度と、こんなことしないでください」
橋の上を一台の車が走り抜けていく。
エンジン音が遠ざかっていく中、二人の間には重い沈黙が流れていた。
零は響を睨みながら、震える声で言った。
「私は斎藤さんと縁を切るなんて出来ない」
「なら、誰とも連絡を取らないよう、静を24時間監視するまでだ」
「っ……」
零の胸に、怒りが込み上げる。
「……ふざけるな」
「なにか言ったか?」
「ふざけるなって言ったんです!」
零は涙をこらえながら、響を見つめた。
「あなた、それでも兄ですか?」
「……」
「兄なら、弟の気持ちを一番に考えるべきなのに…、斎藤さんはあなたの所有物じゃない!」
響はしばらく零を見つめていた。
やがて、呆れたように息を吐く。
「小学生と会話しているみたいで、話にならないな……」
そう言って、響は髪をかき上げる。
零は悔しさに唇を噛みしめた。
何を言っても届かない。
自分がどれだけ静を大切に思っているのか。
静自身がどう思っているのか。
それすら、響には関係ないのだ。
やがて、空から一滴の雨が落ちてきた。
そして、雨は少しずつ強くなっていく。
響は何も言わず、その場を去っていった。
一人残された零は、雨に濡れながら俯いていた。
悔しかった。
悲しかった。
それでも、静を諦めることだけはできなかった。
しばらくして――。
零の頭上に、雨が当たらなくなった。
「?」
不思議に思って顔を上げる。
自分の頭上に、傘が差されていた。
零がゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは__斎藤静だった。
「斎藤さん!?」
静は心配そうに零を見つめている。
「風邪ひきますよ」
その優しい声を聞いた瞬間、零の胸がいっぱいになった。
白いシャツに黒いズボンというシンプルな服装の静は、ビニール傘を差しながら零の側に立っていた。零が着ている白いコートは雨に濡れ、肩や袖から水滴が落ちている。
「確か…、前はここであなたが僕に傘をさしてくれましたよね」
そう静がつぶやく。
「……」
零は俯いたまま、何も答えなかった。
やがて静が話し始める。
「さっき、月さんから電話で聞きました。零さんは西田さん…、つまり兄から依頼されて、僕と月さんのことを調査していたって」
「……はい」
零は小さく頷いた。
「あの…、月さんが斎藤さんの妹だって話、聞きましたか……?」
「ええ。今日、初めて知って驚きました」
静は少し困ったように笑った。
零が俯いたまま、声を震わせる。
「斎藤さん、すみません」
「なにがです?」
「昨日の夜……斎藤さんの家のキッチンの小窓から、斎藤さんと月さんをずっと、見てました」
「知ってます」
「え?」
零が顔を上げる。
静は穏やかな表情のまま話し始める。
「あなたの姿が見えたので声をかけようと思ったのですが、何か事情があると思って、気づかないふりをしていました」
「そう……、なんですね」
零は再び俯いた。
雨音だけが、二人の間に響いている。
静は何も急かさなかった。
零も、すぐには言葉を出せなかった。
静の兄からは『弟に会うな』と言われた。
それでも今、静は自分の隣にいる。
傘を差してくれている。
その優しさが、零の背中を押した。
「斎藤さん」
零はゆっくり顔を上げる。
雨に濡れた髪が頬に張りついている。
それでも、もう俯くことはしなかった。
「私……あなたに、言わなきゃいけないことがあります」
「なんでしょう?」
零は胸の前で両手を握りしめた。
心臓が激しく鳴っている。
怖い。
断られるかもしれない。
それでも――。
もう、自分の気持ちを隠したくなかった。
「私、斎藤さんのことが__」
零は一度、息を吸った。
そして、意を決して静を見つめた。
「……」
「零さん?」
「ヘックション!!!!」
突然、零が大きなくしゃみをした。
「……すみません」
零は恥ずかしそうに鼻を押さえる。
静は心配そうに零を見つめた。
「大丈夫ですか?」
「はい。だけど、ずぶ濡れなので、シャワーを浴びにホテルへ戻らないと……」
零が着ている白いコートから、ぽたぽたと水滴が落ちている。
「零さんって、ホテル暮らしなんですか?」
「はい。探偵として遠出することが多いので、ホテルのほうが何かと楽なんです」
静は少し考えたあと、零の手をそっと取った。
「では、行きましょう。泊まっているホテルはどこですか?」
「えっと…、あっちですけど」
零が橋の向こう側、ホテルがある方向を指差す。
静は傘を差しながら、零の手を引いて歩き始めた。
雨の中を二人で歩き、やがて零が宿泊しているホテルへ到着する。
二人はロビーを抜け、エレベーターに乗る。
零は隣に立つ静をちらりと見た。
先ほど伝えかけた言葉が、まだ胸の中に残っている。
部屋に入ると、零は濡れたコートを脱ぎ、静に声をかける。
「あの…、シャワー浴びてきます」
「はい。ゆっくり温まってきてください」
零は浴室へ向かい、ドアを閉めた。
やがてシャワーの音が聞こえ始める。
静はリビングのソファに腰を下ろし、壁のハンガーにかけられた零の濡れたコートを見つめた。
静かなホテルの部屋に、浴室から流れるシャワーの音だけが響いていた。




