35
リビングに戻った月は後ろにいた桜井へと振り向き、彼女をじっと見つめた。
「ねぇ」
「なんでしょう?」
「あなた、社員じゃなくて、響の愛人か何かでしょ?」
桜井は一瞬きょとんとしたあと、穏やかに首を横に振った。
「愛人ではありません。私と社長は対等な関係ではありませんから。あえて言うなら……、私は響様の召使いのようなものです」
「召使い?」
月が眉をひそめる。
「ええ。私だけではありません。ほとんどの社員が、響様の召使いとして働いています」
「……」
月は信じられないという顔をする。
「公には出来ませんが、時には、痛くない鞭でお尻を叩かれたり、口頭で罵られたり……、
響様から沢山の教育を受けてきました」
「ありえない……」
月は絶句した。
「その話が本当なら、響って相当ヤバい男なんじゃ……」
桜井はそんな月を見て、くすりと笑う。
「月先生は、まだまだ子供ですね」
「え?」
「鞭で叩かれる者も、厳しい言葉を受ける者も、多くの社員はみんな自分から響様に志願して、そういう扱いを受けているのです」
「ちょっと待って、それってつまり…」
月は少し考えたあと、呆れたように言った。
「響がドSで、あなたたち社員がドMってこと?」
桜井は思わず笑った。
「私は違いますが、そうなりますね」
「……ヤバい会社ね…。狂ってるわ…」
月は呆れたように呟いた。
しかし、その表情には先ほどまでの険しさはなく、どこか拍子抜けしたような笑みが浮かんでいた。
「まあ、それはあくまでも裏側の話です」
桜井は穏やかな笑みを浮かべた。
「表向きは、優しい社長と、その社長を尊敬する社員。普通の会社として、ちゃんと成り立っています」
「……」
月は腕を組み、何とも言えない顔をする。
「……響がそんな性格なら、朝日さんは今頃、なにかされてるんじゃないの?」
先ほど響に連れられて出ていった零の姿を思い浮かべる月。
「大丈夫です」
桜井はくすりと笑った。
「響様は確かに厳しいところはありますが、根はとても優しい方ですから」
「……それは、知ってる」
月は小さく呟いた。
「西田として私の側にいた時、なんだかんだで、私のことを考えてくれたし…」
そう言ったところで、月はふわっとあくびをした。
「ちょっと仮眠とるわ…」
「月先生」
「なに?」
「良ければ添い寝、しましょうか?」
桜井が優しく尋ねる。
月は少しだけ桜井を見つめた。
「……勝手にすれば」
そう言うと、月は眠そうに立ち上がり、寝室へ向かった。
桜井はその後を静かについていった。
♢
寝室のベッドに入り、月と桜井は並んで横になった。
「添い寝の相手が女性だなんて……なんだか変な感じだわ」
月は隣にいる桜井をちらりと見た。
まだ出会って間もない相手と、こうして同じベッドに入っている。それだけでも妙な感覚だった。
「では、失礼しますね」
桜井がそっと月の身体を抱き寄せる。
服越しに伝わってくる桜井の体温が、じんわりと月の身体を包んだ。
冷えていた背中に、温かな熱がゆっくりと染み込んでくる。
「……」
桜井の腕が月の身体を包み込み、もう一方の手が髪を撫でる。
指先が髪をゆっくりとかき分けるたび、頭皮に優しい刺激が伝わってくる。
「……温かい……」
思わず、月の口から言葉がこぼれた。
その瞬間、幼い頃の記憶が蘇った。
怖い夢を見た夜。
母に抱きしめられたときの温もり。
背中に触れる母の手。
耳元で聞こえた、優しい母の声。
『月…、ちゃんと側にいるからね…』
あの頃と同じような温かさだった。
「……」
月の目から、涙が一粒こぼれた。
桜井は何も聞かず、ただ月の頭を撫で続ける。
その手のひらの温度と、身体を包む体温が心地よかった。
「月先生」
「…なに?」
「先生は怖い夢を見て、それをもとにホラー小説を書いているのですか?」
桜井が静かに尋ねる。
「……そうよ」
月は桜井の胸元に顔を寄せた。
そこから伝わってくる温もりに、自然と身体の力が抜けていく。
「ホラー小説もいいですが、これからはそういった小説だけではなく、もっと楽しいファンタジーや恋愛小説を書いてみてはいかがですか?」
「ファンタジーや恋愛小説……そんなの、書けるかしら」
「書けますよ」
「……ほんとにそう思う?」
「ええ。これからは月先生がいい夢を見られるよう、私がそばにいますから」
月はしばらく黙っていた。
やがて、桜井の胸に顔をうずめる。
柔らかな布地越しに感じる温かさ。
一定のリズムで聞こえる心臓の音。
それらに包まれているうちに、月の意識は少しずつ眠りへ落ちていく。
「ありがとう……桜井……」
「どういたしまして、月先生」
桜井は月の頭を優しく撫で続けた。
やがて月は、安心しきったような穏やかな表情で眠りについた。




