30
リビングのソファに座っている月がドライヤーを手に持ち、髪を乾かし始める。
しばらくしてドライヤーの音が止まり、月が突然、頭を抱えた。
「あー!ダメ!ほんとイライラする!!!!」
月は落ち着かない様子で、リビングを行ったり来たりする。
零はキッチンの小窓から、その姿を見つめていた。
昼間、カフェで見た月とはまるで別人だった。
苛立ちを隠そうともせず、行き場のない感情を持て余している。
やがて、寝間着姿の静がリビングに戻り、月の手からドライヤーを取った。
「ちょっと…」
月の言葉に静は何も言わず、自分の髪を乾かし始める。
月はソファへ腰を下ろすと、両手で頭を抱える。
「……もう、イヤ…」
そして突然、声を上げた。
「もういやああぁぁぁ!!!!」
「!!」
零は思わず肩を震わせた。
室内の静は驚く様子もない。
ドライヤーを止めると、テーブルへ置く。
そして月の隣へ腰を下ろした。
「……」
月は俯いたまま動かない。
静は何も言わず、ただ隣に座っている。
すると月が、ゆっくりと顔を上げた。
そして静の方へ身体を寄せる。
月の唇が、静の首元へそっと触れた。
「え……」
窓の外で見ていた零の目が大きく開く。
心臓が大きく跳ねた。
二人の距離は、あまりにも近かった。
零は思わず息を止める。
__やっぱり、二人は……。
そう考えた瞬間、胸の奥が苦しくなった。
月はソファに座る静を見つめると、突然、片手の手のひらを差し出した。
「斎藤、お手!」
静は差し出された手のひらを見つめる。
「……そんなくだらないことは、しません」
「西田はやってくれたわ」
「……」
窓の外で聞いていた零は、思わず目を見開いた。
(西田さんがそんなことを…?)
静は月の顔を見る。
「やってくれたのではなく、やらせた、のでは?」
「……」
月は少し不満そうに静を見つめた。
「斎藤。あなた、なにも分かってない」
「何がです?」
「西田は仕事はできないし、イライラさせてくるし、使えない男だし、時々、殺したくなるけど…。
それでも私のマネージャーは西田がいいの。どうしてかわかる?」
月はじっと静の顔を見つめる。
「わかりません」
と静。
「西田はね…、あなたとの関係に似てるからよ…」
静は月を見る。
「友達以上、恋人未満ですか?」
「そう」
月は小さく頷いた。
「性的な関係じゃない…。ただ添い寝してもらってるだけ…」
その言葉のあと、月は黙り込んだ。
いつもの月なら、冗談でも言って笑い飛ばすところだった。
けれど今は違う。
視線を落とし、両手を膝の上で握りしめている。
「どうして……」
声が震えた。
「どうして、私はこうなの…?」
静は何も言わない。
「普通じゃないわ、こんなの……」
月は俯いたまま、かすかに笑おうとする。
けれど、うまく笑えない。
「……助けてよ」
小さな声だった。
「私を……助けて……」
静は黙って月を見つめていた。
しばらくして、月がソファからそっと立ち上がる。
「変なこと言ってごめんなさい…、原稿の締め切りに追われて疲れているだけだから、
さっき言ったことは全部、聞かなかったことにして…」
そう言い残し、月はリビングを出ていった。
やがて月は寝室に入り、寝室の扉が閉まる。
シンとした部屋に、一人残された静。
「……」
静はしばらく天井を見つめていた。
そして、小さく息をはく。
そのまま立ち上がり、静もリビングを後にした。
窓の外では、零が息を殺し、二人の会話の一部始終を聞いていた。
零は月が言っていた言葉を思い出す。
『私を……助けて……』
零の胸の奥に、重いものが残った。
しばらく、静かな時間が続いた。
家の中からは何の音も聞こえてこない。
零は壁際に立ったまま、夜空を眺める。
(……もう、帰ろうかな)
これ以上ここにいるのは、無意味かもしれない。
そう思って、零がその場を離れようとした、そのとき__。
「いや!」
かすかに月の声が聞こえた。
続いて、泣き叫ぶような声。
「いやあぁぁ!」
「……」
零は足を止めた。
遠くから聞こえてくる月の泣き声。
やがてリビングへ向かってくる足音が聞こえた。
__静だった。
(こっちに来る…!)
零は反射的に窓から離れ、身体をかがめ身を隠す。
しばらくすると、キッチンから水の流れる音が聞こえた。
コップに水を注いでいるのだろう。
「……」
零は息を潜める。
やがて、静の足音が少しずつ遠ざかっていく。
そして――。
静寂が戻った。
「……夜泣きって、やっぱり月さんのことだったんだ……」
零は小さく呟いた。
以前、水族館で静が口にしていた言葉。
『――夜泣きがひどくて』
あのときは意味が分からなかった。
けれど今なら分かる。
静は月が精神的に不安定なとき、自宅に泊めている。
一緒に眠り、泣き出せば起きて、なぐさめてあげているのだろう。
「……」
零は胸の奥に複雑な感情を抱えた。
二人が恋人なのか。
それとも、ただの友人なのか。
まだ分からない。
けれど、少なくとも静が月を放っておけないことだけは分かった。
「……」
零は歩き出し、道路の端からもう一度、静の家を見る。
そして、静かにその場を離れた。
夜の街を歩きながら、零は何度も振り返りそうになった。
けれど、最後まで振り返ることはなかった。
♢
零は夜道を歩きながら、スマートフォンを取り出した。
しばらく画面を見つめたあと、西田へ電話をかける。
数回の呼び出し音のあと、電話が繋がった。
「もしもし、朝日さん?」
「西田さん、夜分遅くにすみません」
「いえいえ。それより、斎藤さんとの関係について、なにか分かりましたか?」
「はい……」
零は少し迷った。
しかし、依頼を受けている以上、伝える必要がある。
「斎藤さんの自宅で見たこと、聞いたことをお話しします」
零は、月が静の自宅へ入っていったこと。
二人がリビングで過ごしていたこと。
月が精神的に不安定になり、泣き出したこと。
そして、静が月を落ち着かせていたことを、順番に説明した。
西田はしばらく黙って聞いていた。
「……つまり」
やがて、確認するように尋ねる。
「二人は性的関係を持っていない。ただ添い寝するだけの関係、ということですか?」
「はい…、おそらく…」
零は答えながら、胸の奥に複雑な感情を抱いていた。
静と月は想像していたような関係ではなかった。
それでも、二人の距離は近い__。
「朝日さん」
「はい」
「僕からひとつお願いがあります」
「なんですか?」
西田の声が少し低くなる。
「明日の朝、月先生の自宅に来てくれませんか?」
「え?」
「そこで、月先生と話してほしいんです」
零は言葉を失った。
「ここだけの話、月先生には同性の友人がいません」
「……」
「女性であるあなたなら、月先生の気持ちが分かるかもしれない」
「そんなこと言われても……」
零は戸惑った。
自分はただ、依頼を受けて調査しているだけ。
月と直接話すことになるとは思っていなかった。
「お願いします!」
西田の声が、電話越しに響く。
「少し先生の話を聞くだけでもいいんです。月先生が何を考えているのか、僕にも分からないことが多くて……、女性の友人が一人いるだけでも、先生の心の支えになるんじゃないかって、そう思うんです」
「……」
零は断ろうとした。
しかし__。
月の『助けて』という言葉が、頭から離れなかった。
あのとき、彼女はいったい何を考えていたのだろう。
静に何を求めているのか。
そして、まだ自分が知らない月の本心を知りたい。
そんな気持ちが、少しずつ湧いてきていた。
「……分かりました」
零は答えた。
「では、明日の朝9時に月さんの自宅に伺います」
「ありがとうございます!お待ちしております!」
通話が切れる。
零はスマートフォンを下ろし、夜空を見上げた。
明日、清水月と直接話す。
彼女は一体、どんな悩みをかかえているのだろう。
清水月は斎藤静に対して、恋心を持っているのか__。
零は複雑な気持ちを抱えたまま、静かな夜道を歩いていった。




