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月の自宅から三十分ほど歩いたところで、月が足を止めた。
零は少し離れた場所から、その様子を見守る。
月の目の前にあったのは、一軒の住宅だった。
月は迷うことなく玄関へ向かう。
そして、呼び鈴を押すこともなく扉を開け、そのまま中へ入っていった。
零の胸が大きく跳ねる。
見覚えのある場所だった。
「……斎藤さんの家…」
時刻は午後8時。
零は道路の端に立ったまま、静の家を見つめる。
月はいま、静の家にいる。
それだけで、胸の奥が重くなる。
「……」
二人が何をしているのか。
確かめたい。
依頼を受けた探偵として、二人の関係を調べなければならない。
零はそう自分に言い聞かせる。
そのとき、家の側面にあるキッチンの小窓が少し開いていることに気づいた。
「……」
零は周囲を確認する。
人の気配はない。
小窓からなら、家の中の様子が分かるかもしれない。
しかし、零はそこから覗くことはしなかった。
さすがに勝手に人の家の中を覗き込むのは、探偵としても気が引ける。
代わりに、窓の近くまで静かに移動する。
そして、壁際に身を寄せ、耳を澄ませた。
「……」
最初は何も聞こえない。
しばらくして――。
かすかに、室内から女性の声が聞こえてきた。
「斎藤……」
月の声だった。
零の心臓が、また大きく跳ねる。
続いて、静の声。
「なんですか?」
二人は、何を話しているのだろう。
零は息を殺し、さらに耳を澄ませた。
聞こえてくる会話の一言一言が、胸の奥を刺激する。
それでも零は、そこから離れようとしなかった。
「西田を殺して…」
月の声が、静かな室内に落ちた。
「!?」
窓の外で聞いていた零は、思わず息を呑んだ。
__殺して?
冗談なのか。
それとも、本気なのか。
零は耳を澄ませる。
室内では、しばらく沈黙が続いていた。
静は何も答えない。
やがて、月が小さく笑った。
「冗談に決まってるでしょ?」
「……」
「真に受けないでよ」
静は淡々と返した。
「冗談には聞こえませんでした」
「まぁ……、半分本気だからね」
「……」
零の背筋に、冷たいものが走った。
これが、西田の言っていた『気性が荒い』ということなのだろうか。
さっき、玄関先で激しく西田を怒鳴りつけていた月。
そして今は、人を殺してほしいという話を笑いながら口にしている。
写真で見た儚げな美人。
カフェで赤い髪の男性の話を静かに聞いていた女性。
その時の姿と、今の月がどうしても結びつかない。
(……怖い)
零は初めて、清水月という女性に対して明確な恐怖を感じた。
そのとき、室内から月の声が聞こえる。
「ねぇ、斎藤。お酒ある?」
「ありません」
「どうして?」
「家に置いていたら、あなたに全部飲まれるので」
月が少し黙る。
「…お酒を飲んで酔わないと、気が狂いそう」
零はその言葉を聞いて、ますます月の心の内が分からなくなった。
ただ怒っているだけではない。
何かを抱えている。
そのことだけは、伝わってきた。
窓の外で、零は静かに息を吐いた。
「シャワー浴びてくるわ」
月の声が聞こえる。
そして、少し間を置いて――。
「斎藤、一緒に入らない?」
零の胸がざわついた。
やはり、二人はそういう関係なのだろうか。
考えたくないのに、そんな考えが頭をよぎる。
しかし、静の返事は淡々としていた。
「入りません」
「あっそ……」
月の声には、特に怒った様子はなかった。
しばらくして、零は迷った。
これ以上、ここにいても自分が苦しくなるだけ。
それでも、どうしても気になってしまう。
零はほんの少しだけ、開いている小窓から室内の様子をうかがった。
そこに見えたのは、キッチン、そして広いリビング。
そして、リビングのソファに座って目を閉じている、斎藤静の姿だった。
(斎藤さん……もしかして、寝てる?)
零がじっと静の方を見る、しばらくしてリビングに月が戻ってきた。
寝間着姿になった月が、ソファで眠る静へ近づく。
「斎藤…」
月が静の肩を軽く揺する。
静がゆっくりと目を開けた。
「……なんですか?」
「シャワー浴びてきて」
月はドライヤーを手に持っている。
静は眠そうな目で月を見る。
「言われなくても、そうします」
そう言って、静はソファから立ち上がる。
そのまま部屋の奥へ向かって歩いていった。
月はその背中を見送り、ドライヤーを持ったままソファへ腰を下ろす。
零はその光景を見ながら、複雑な気持ちになった。
月が静を起こし、当たり前のように静の側にいる姿を見ていると、二人は恋人にしか見えなかった。




